辺りはとても静かだというのに、廊下にはおれの足裏が引っかかる音が耳に入る。しかし、とてもじゃないがそれを気にしていられる心持ではなかった。
とある一室を前に、ようやく足が立ち止まる。恐らくは数秒その場で立ち尽くしていたのだろう。落ち着きを取り戻すには、それくらいの時間がどうしても必要だった。扉をノックするという行為に躊躇してしまったのは、今でもそれを行け入れたくなかったからかも知れない。
「……入るよ」
ノックをしたところで返事が帰ってくるわけがないのに、何処か期待している自分がいる。しかし、その期待はいとも簡単に打ち砕かれるということもおれはちゃんと知っていた。
扉が閉まる音と共に聞こえるのは、心音を伝える医療器具の音。近づくたびにはっきりと聞こえてくるその淡々とした音が無意味にすら聞こえてしまうほどに、酷く煩わしく感じてしまう。真っ白という訳でもないが、この簡素な部屋の色が静かな空間の中にいるとより如実に表れているような、そんな気がした。
床の擦れる音が僅かに混じりながら、窓際の棚にある花瓶へと向かう。おれは、既に花瓶に何本かささっている花にそっと触れた。それらの色がやけに目に付いてしまったのは、恐らくこの一室が簡素過ぎるせいだろう。気付けば早々に視界から外していた。目を向けたのは、すぐ横にあるベットだった。そこにいる、包帯が巻かれた痛々しい姿の某人の姿を見るたびに顔が歪んでいくのが分かる。
「拓真……」
無意識に届くはずもないそいつの名前が漏れた。あれから、拓真が事故に巻き込まれてから約二日が過ぎた。医者が言うには、後は本人の体力の問題とのことで後はただただ目が覚めるのを待つ他ないらしい。
拓真の両親はこの時間は仕事のようで、今の時間はおれしかいない。今日も病室に足を運んでしまったのは、図書室に行っても知り合いがいないから。……ただそれだけというには、少し弱い。
学校にいても頭が回らないし、家に居ても落ち着かない。おまけに話し相手もいない。出来る限り頭を整理したいと思えば思うほど、ここに来るのが最善だという他なかった。それでも、気を抜けば言いようのない感情に押しつぶされそうになるのは変わらない。
拓真は、信号を無視して突っ込んできた車に巻き込まれたと警察から聞いた。車は電柱に車がぶつかるまで走り続けたらしく、ボンネットは原型を留めていなかったようだ。運転手は拓真と同様、重体のまま意識はまだ戻っていないらしい。ブレーキを踏んだ後はあったようだが、どうやらそれが正常に作動することがなかったようだ。警察によるとどうやらそういうことになっているらしい。おおかた警察の言う通りなのだろうが、それでもやはり拭えない疑念は当然残る。
事故が起きた場所は雅間さんが亡くなった場所と同じで、学校から図書館へと向かう道。比較的車通りも少なくて、本来なら事故なんてそうそ起こらない場所だ。だが、それが起きてしまった。しかも短期間に二回。恐らく警察は「車の不具合が原因だった」と結論づけるだろうし、別にそれでも構わない。最も、本当に故意ではなかった場合に限るが。しかし、それが本当に真実であるということに関しては、おれは疑問を提示せざるを得ない。そうであって欲しくないと思いながらも、恐らくそうなのだろうという一定の確信と疑念があった。
こんな話、人に言ったところで頭のおかしい奴と思われて相手にされないだろうから基本的には誰にも言わないけど、言わないことによって無駄なストレスが溜まる。唯一言っても許されるであろう人物が目の前にいるのだが、出来れば余り視界には入れたくない。
――既にこの世には存在しない、雅間 梨絵という存在によって起きた事故だと考える余地があるというのを、おれは一体どうやって自分の中で完結させればいいのだろうか?
そもそも確証なんてものは何処にもないし、何より警察に信じてもらえるなんて思ってはいない。でも、その可能性が否定出来ない限りは疑うべきだ。
あの日の自分の携帯電話の履歴を見ると、言い表すことの出来ない苛立ちに溺れそうになる。もっと早く向かって入れば、最悪の事態は免れることが出来たかも知れない。ちゃんと自分の目で確認することも可能だったはずだ。そんなことばかり、考えてしまう。
「……くそ」
その現実を受け止められるほど、冷静になんてとてもなれやしない。
だが、この一連の出来事が人間の手によって起きたものではないのだとするなら、おれにはまだやれることが幾つか残っている。最も本当におれだけでどうにか出来たらの話だが、それをするには状況を整理する時間がどうしても必要だ。
おれは深く、息を吐いた。
拓真の事故に関連した大きな疑問は幾つかある。
雅間さんには直接会ったことはないけど、幾ら生前拓真に恋慕があったからといって、事故まで起こすなんてそう起こることではない。なにか伝えたいことがあったのだろうが、それが未練として残っただけであの場所に留まっていただけなんじゃないかと考えるのが普通だ。だからおれは首を突っ込まなかった。結果最悪の状況になったわけだが、拓真を巻き込むなんていう行動は、端的に言うならあり得ないのではないだろうか?
また、雅間さんの事故は信号を無視した車が巻き起こしたらしいが、拓真の事故も条件が全殆ど変わらないという部分も引っかかる。人通りも車通りも少ない見晴らしのいいあの場所で、同じ条件の事故がこの短期間にこんなにも都合よく二回も起こるものなのか? 現実に起きてしまったのは嫌でも分かるが、理解するのにどうも時間がかかる。
考えれば考えるほど浮かんでくる疑問符。どうにも、真実に至るまでの何かが足りないらしい。
それを払拭するにはどうするべきか? こうなったら、もう当事者に聞くしか道は無いだろう。というよりも、おれが取れる行動は今のところそれしかない。そう結論づけてしまえば、行動は早かった。
「……悪あがきくらいはしないと駄目だな」
悪あがきというのとは少し違うのかも知れない。これ以上の後悔なんてしたくない。ただそれだけだった。
おれが病室から姿を消すのは、もう時間の問題だ。
◇
日付が変わった今日。学校が終わって暫くした後、おれはとある場所へと足を運んだ。
幽霊というのは、比較的こちら側の話を聞いてくれない場合が多い。例えばそこらを漂っているだけの存在であれば特に問題はないし、それだけならおれだって干渉することは基本的にしない。ただ、こういう存在は何か未練があるためにそこに留まっている場合が圧倒的多数を占める。そして厄介なことに、それらが現世に留まれば留まる程彼らの力は邪悪なものになっていくし、『幽霊とは違う別の存在』に目をつけられる可能性が高くなる。本来なら未練もなくそのまま行くべきところに行くというのが理想だけど、寿命ならともかく、例えばある日突然命が絶たれてしまったなどという場合はそうもいかないだろう。そうなる前に何とかするのが一応おれらみたいな視える人間が出来る唯一のことだけど、別にそれをしないからといって誰かに咎められるなんてことはない。やりたくなければやらなければいいだけの話だ。
しかし、やっぱり見て見ぬふりというのは例えもうこの世にいない存在だったとしても、夢見が悪いというものだ。それが知り合いに深く関係しているのなら、尚更である。
「……居るんでしょ?」
一体誰に向けて言っているのか、誰もいないガードレールの電柱付近にむけて声を発する。すると、途端に大きな風が付近から巻き起こった。風と同時に、小さな光の粒がはらりと舞う。それを見た時、おれは静かに息を漏らした。
「雅間さんだよね?」
目の前に現れたのは、隣町の制服を着たひとりの女性だ。電柱の影に隠れ、こちらを伺っているのが見て取れる。本来話しかけることなんて出来ない人物に声をかけているというのはどうにも不思議な気分になる。これが最初という訳ではないものの、こればっかりはどうにも慣れないというものだ。
「はじめまして、おれは宇栄原って言うんだけど……。まあ簡単に言うと、神崎 拓真の知り合いかな」
「……か、神崎さんの?」
おれの口からその名前が出てくるとは思ってなかったのか、想い人の名前を口にした途端大きく目を見開いた。
「会って確認しておこうかなって思って」
そう口にすると全てを理解したのか、より一層視線が挙動不審に陥った。さて、ここからどうすれば波風立てることなく話を聞くことが出来るのか。出来れば考える時間が欲しいものだが、そうもいかない。
「一応言っておくけど、あの人まだ死んでないから」
「で、でもぉ……!」
何がどう相手に刺さってしまうのか、会って間もないのだから分からなくて当然だ。
「私、なにも出来なくて……」
途端に、大粒の涙が零れていく。夕の光と合わさって何処かへと消えていく様は、到底現実では見ることの出来ない光景だろう。
しかし、このお陰で確信はした。
「……ここに来るまで、正直ちょっと雅間さんのこと疑ってた」
雅間さんは、おれの言葉をただただ黙って聞いている。一体どんな気持ちで今までここに居たのか、計り知れる術は存在しない。
幽霊というのは、自分が思っているよりも自我を保てていない場合が多い。今回の場合が典型的なそれだろう。と言いたいところだが、それともまた少し違うらしい。
「でも今日はじめてここに来て、拓真に内緒で一回くらい来ればよかったなって後悔したよ」
手にしていた紙袋の中から、小さな花束を取り出した。時期が時期だったお陰で用意することは叶わなかったが、白い花であることには変わりない。
おれのような存在がこうして話しかけてくるということはどういうことか、どうやら彼女は何となく分かっているらしかった。幽霊ともなると直観が働くのか、それとも最初からその類のモノが分かる人物だったのか。それはこの際どちらでも構わないだろう。
「今日は、私のこと消しにきたんですか……?」
「違うよ。まだおれは、拓真の口から何も聞いてない。雅間さんだってそうでしょ?」
涙を拭い、堪えながら必死におれの話に耳を傾けている。その純情な様子、恐らく拓真も惹かれる部分はあったんじゃないだろうか? 最も、拓真が本当にどう思っていたのかについてはちゃんと聞いてはいない。一度だけ、それに近い言葉を拓真が口にしたことがあったが、あれはどちらかと言うと囃し立てたおれらが悪い。あえて聞いていないということにしておこうと思う。
「それに、拓真とは約束しちゃったから。バレるようなことはしないよ」
そうは言うものの、少し苦笑いに近くなってしまっただろうか? 確かに、おれがその行動をしてしまったほうが断然解決は早いのかも知れない。しかし、世の中には忖度というものがある。そう簡単にやってしまっては、ここまでの事態に陥った理由も無くなってしまうというものだ。
本当は、おれからじゃない方がいいんだろうけど。一応そう付け加えることにして、雅間さんに花束を差し出した。
「またすぐに戻ってくるとは思うけど、万が一ってことがあるからちゃんと持っててね。理由は……言わなくても分かるよね?」
これはあくまでも、拓真の意識が戻るという前提の話だ。更に言うのであれば、おれの身にこの先何も起きないという条件つきのもと。僅かに躊躇しながらも、おれの意思が乗ったその花束に彼女が触れる。しっかりと手に渡ったことを確認して、おれはようやく落ち着いた笑みを零した。
「また来るね」
花束から落ちる光がおれの力によるものなのか、それとも空からの光を浴びたダイヤモンドリリー自身のものなのかは分からない。紙袋の中にまだ残っているとある花を視界に入れないよう必死に目を配らせながら、おれは足を翻した。
◇
「……なんだ、ここ」
俺がこの場所に来た時に発した第一声は、特に面白みもない言葉だった。
一面の白。そうであるのに、なにかこの世のものではない黒い何かが這っているように感じたのは、恐らく気のせいではなかったのだろう。背筋が凍るとはよく言ったもので、背中の辺りから徐々に焦りにも似た恐怖のようなものがせり上がってきたのを感じた。
ここに居てはいけない。俺の中の直感的な何かがそう警告をしているのがよく分かる。しかし、辺りを見回してみても何も存在しないこの空間の中で何をすることも叶わない。視えない何かの気配が背中を刺す。だが振り返ってもそこには何もいないのだ。確実に焦っているのが自分でもよく分かる。それくらいに、いつもより鼓動が酷く騒がしい。
これはまずい。直感的なそれとは別に、一瞬にして鳥肌が立った。
体中に見えない何かが這いつくばってくるような見えない気配。
普段だったら到底あり得ないであろう、心臓をそのまま掴まれそうになるこの拭いようのないこの感覚。
俺という存在が『死ぬ』という前触れのようで、途端に嘔気に晒される。その時だった。
『――全く、集るなんて無様だな』
誰かの冷ややかな声が後ろからしたと思ったと同時に、何かに腕を掴まれた。俺以外に誰もいなかったはずの空間に突然現れたそのひとりの男の手が、俺にようやく感覚を取り戻させた。
万年筆のようなモノを手にしたその男のが現れた途端今まで取り巻いていた空気が一変、一瞬で何かが消えていくような感覚が走った。さっきまでの嘔気すらも無くなってしまったほどだ。
『ああ、良かった。間に合わなかったらどうしようかとヒヤヒヤしたよ』
帽子を被り直しながらそう口にした男は、自身のことを『支配人』と呼んだ。
そいつに連れられて訪れた、『time out』という場所。支配人という人物曰く、ここはとある条件下によって訪れた人間の魂が、『魂の浄化』をする目的で作られた場所であるらしい。どうやら本来俺はその条件外らしく、俺がこの場所に来たことが異常事態であるということから、記憶の選定が行われなかったんだとかなんとか。なんか色々言ってたけど、正直余り覚えていない。あの心臓をそのまま掴まれたかのような感覚が忘れることが出来ず、上の空だったのだ。
「ここに来てしまったという事態は、起きてしまったことだからこの際置いておこう」
飄々とした支配人の目は、俺をしっかりと捉えている。
「キミ、向こうに戻る気はあるかい?」
「……向こう?」
「簡単にいうと、キミがさっきまで居た世界さ」
言っている意味が、よく分からなかった。
「キミは別に、ここに居る必要のないニンゲンだ。だからというわけではないが、戻ろうと思えばいつでも戻れるんだよ。但し、逆に言うなら戻らないという選択も可能でね」
ここに来る前のことは、かなり鮮明に覚えている。
支配人は、俺がまだ生きていると言った。しかし、この異様な空間の中で本当に俺が生きているのだろうか? そんな疑問が拭えない。だってあの時、ここに来る前の出来事で俺はどうなった?
それを思い出すだけでこんなにも息が詰まるというのに、この人は、俺がまだ死んでいないと言うのだろうか?
「……別に、それに轢かれたからといって必ず死ぬという訳ではないのだろう?」
どうやら、俺の考えていることは支配人には全て露見しているようだった。それには確かに驚いたし、ある意味では不快だった。しかし、この場所においてそれは本当に些細なことであるということを、これから嫌になるほど痛感することになる。
「さっきも言ったが、ここはある意味では魂の停留所だ。だが、言ってしまえば今のキミには関係のない場所だし、ワタシとしてはこのままキミは向こうに戻るという選択をするのが本来あるべき姿だと思っている。でもね、ワタシはここに来た人物の意思というものを出来るだけ尊重したい。どうやら、ただの事故ではないようだからね」
ただの事故ではないというのは、雅間というもう消えた存在が起こしたことだからということなのだろうか? というか、俺はここに来て数分しか経っていないはずなのに、なんでこいつは俺が事故にあったことを知っているんだ? 俺はまだ、この場所に来てまだ数回しか口を開いていないというのに。
「……どうする?」
現実ではない、何処か夢にも通ずるところがある空間。本来ならば、こんなところすぐにでも出ていくのが先決なのだろう。そんなことは分かっている。分かってはいる。しかし、その問いに俺はどうしてかすぐに答えることが出来なかった。
「まあ、どちらにしても猶予は一週間だ。それまでに答えを聞かせてくれ」
ああそれと……。言い忘れていた、と続きそうな言葉を経て、支配人は更に言葉を続けた。
俺よりも前にこの場所に来ている人物がいるという話だった。
「……あいつ、本当にここにいるのか?」
そいつの名前は『橋下 香』という、俺のよく知っている人物だった。
「居るよ。見に行くかい?」
そう問われ、俺は思わず言葉を噤んだ。
決してここに来る前に喧嘩したとかそういう訳でもないし、特別な理由があるわけでもない。恐らくそれは橋下も同じなのだろう。意味もなくばつが悪かったのだ。
「まぁ別に今すぐじゃなくても構わないけどね。彼はキミよりも早くここにきているから、そこまでの時間はないよ。それだけ念頭に入れておくといい」
「……なんで橋下がここにいるんだ?」
俺がここに来た理由もさることながら、橋下がいるというのもよく分からない。というより、正直理解が及ばなかった。
「気になるなら、会って聞いてみたらいいんじゃないかな?」
それだけ言うと、次は案内人が俺の相手をし始めた。どうやら、こいつは俺を部屋まで案内する役目を担っているらしい。案内された場所は、急遽用意されたらしい『132号室』。どうやら、そこが俺の部屋のようだった。
道中の廊下には、当たり前の様に掃除士という人物が死んだように寝転がっていた。「急だったから、疲れてるんですよ」とか最もらしいことを案内人は言っていたけど、掃除ってあんなになるまでしないといけないようなことだっただろうか?
転がっている掃除士はそのまま、案内人が部屋の扉を開ける。視界に入った部屋を見て、俺は思わず時間という概念を忘れた。
「黄色……?」
「梔子色(くちなしいろ)ですよ」
「クチナシ……」
なにかがおかしい。そう思ったのは、それが俺の目に入ってすぐのことだった。
一面が黄色の部屋。ただそれだけのことなのにかなり居心地が悪い。それは決して白い場所から急にこの色が目に入ったからとか、そういうことではない。
まるで計ったかのような名前の色に囲まれたこの場所。
「この色、嫌いですか?」
案内人の問いに答えるのは、とても簡単だった。
「……大っ嫌いだ」
その言葉は、俺の口からいとも簡単に零れていった。
「……なら書庫室にでも行きます? 今ならまあ……橋下さんも来ないでしょうし。それに眠いでしょう?」
「……そんなこと言われたら眠くなるだろ」
「それは自覚がなかっただけだと思うんですけどねぇ」
ただの客の我儘に、どうして案内人がここまで気を遣ってきたのかは今でもよく分からない。でも、その言葉を聞いてしまってからは確かにとても眠気に襲われていた。眠くて、眠りについたらそのまま一週間が終わってしまいそうで、それにのまれたらきっと本当に全てが終わってしまうのだろうと思ってしまうほどだった。男の言う通りにするのは少々不服だったが、ここに居るよりは断然ましだろう。そう判断した。
案内をされてから暫く。どれくらいの時間が経ったのかは知らないが、すっかり寝入ってしまった俺を無理矢理起こしに来たのは、またしても案内人だった。
「神崎さーん。起きてます?」
「……今度はなんだ」
「相谷 光希って人、知ってますよね?」
また聞きたくない名前が、耳を掠めた。
「……なんでそんなこと聞くんだよ?」
「いや、そのうち来ると思うので一応聞いておこうかなと思って」
なんでこんなにも、立て続けにここに知り合いが来るんだ? 偶然? 本当にそうか? ある一定の条件下じゃないと来ることが出来ないらしいこの空間に知り合いが三人も集まるだなんて、それを偶然だと本当に言えるのだろうか?
「知り合いなんですよね?」
次にこいつの口から出てくる言葉なんて、どうせ決まっている。
「会いますか?」
「……んなこと聞くなよ」
「もー、神崎さん。そんなんだとすぐ一週間経っちゃいますよ?」
だったらなんだ?
「戻りたくないんですか?」
戻るとか戻らないとか、そういうのは今どうでもいい。少なからず、あの二人がここに来ないといけないような状況が俺の知らないところであった。そしてそれに気付けなかった。
その事実は、俺をここに留まらせるのには十分過ぎる。
「あー……どーりで……」
なにかひとりで勝手に納得している案内人は、続けて言葉を並べた。
「まあ、どっちにしろ相谷さんは連れてきますから。別に部屋に逃げてもいいですけど、それをしないなら覚悟はしておいてくださいね?」
それだけ言って、案内人は俺の前から姿を消していく。
どうして相谷にまで会いたくなかったのか? その答えは至って簡単だ。
もし会ってしまったら、俺はきっと自分も残るというとかいう行動を本当に取ってしまいそうだった。現に会ってすらいないにも関わらず、確実にその行動を取ってしまいかねないような思考だった。
でも、この考えは矛盾していることも知っている。戻るべきであるということも分かっている。
最初ここに来た時、もし本当に雅間が俺を殺そうとしてたのだとしたら戻らない方がいいんじゃないかと思った。それが最善だとするならそうしていた。しかし、向こうにはまだ宇栄原がいるはずだ。だとするなら、俺が帰らないという決断をしてしまってはあいつはどうなるだろう? 自分のことよりも幽霊のことを気にするようなやつだ。恐らく自分のことばかり責め立てるだろう。それなら戻るという決断のほうが正しいだろうし、そもそもここに来てしまったのが異例なのだから留まるという選択肢があるのもおかしな話だ。
しかし、橋下がここに居るということを知り、おまけに相谷までここに来るらしいということを知ってしまった。
ここに留まったからといってそれで何かが解決するなんてことは思っていない。そこまで自分に影響力があるとも思っていない。帰るべきだというのは十分分かっている。でもだからこそ、決められなかった。こんなところでなんて会いたくなんてなかったふたりの知り合い。それが、俺の考えを少しだけ歪ませた。
――あくまでもこれは、もしもの話だ。
出来ることなら、今この時間もいつものように宇栄原がいて、よく喋る橋下がいて、若干面倒くさそうにしている相谷がいる。それが理想だ。
その未来が俺を待っていたのなら、俺はこの場所でこんなに悩むことは無かったのかも知れない。
◇
「神崎さん神崎さん」
「……なんだよ」
うるさい案内人という人物が、しつこく俺に声を投げた。
「神崎さんって中々ここから出ていかないですけど、本当にそれでいいんですか?」
「……どういう意味だ?」
「どういう意味もなにも、そのまんまですよ」
向かいのソファに座って、肘掛けを使って頬杖をついているこの案内人という男が言いたいのは、つまり「帰るチャンスがあるのに、どうしてまだここに居座っているのか」ということなのだろう。その問いに俺は答えることをしなかった。代わりに相谷に飛び火した点に関しては、少々申し訳なさが募る。
「相谷さんはどう思います?」
「え……ぼ、僕?」
案内人の左手に座っていた相谷は、突然名指しされたからかとても焦っていた。
俺とばっちり目を合わせたかと思うと、考えが纏まらないといった様子で、目を泳がせていく。目を逸らされるのはわりといつものことだけれど、ここまで挙動不審なところは見たことがない。正直調子が狂う。
「えっと……帰れるなら、帰った方がいいと思いますけど……」
「ほらあー。知り合いがそう言ってるんですから、聞いておいた方がいいと思いますけどねぇ」
完全に案内人に言わされているような気がしなくもないが、それはこの際置いておく。俺だって別に、こんなところに居たくて居るわけじゃない。
ただ、気になることがあるだけだ。
「……あ、あの」
相谷の声が、俺に向けられる。実に久し振りに感じたが、そもそもこうして喋ったことがあったかどうかすらも怪しいくらいだ。
「先輩は、どうしてここにいるんですか……?」
「……そういうお前こそ、どうしてこんなところにいるんだよ」
「ぼ、僕は……だって……」
段々と、相谷の声が小さくなっていく。言い澱むそれに続く言葉を探しているからなのか、もしかしたら聞いてはいけないことだったかもしれない。少しばかりの沈黙に耐えられなくなったのか、相谷が再び口を開いた。
「ここに来たとき、自分の名前も覚えてなくて……」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。そう言って俯いたっきり相谷と目があうことはなかった。一番最初、ここに来た時支配人とかいう人物に名前の確認されたのだが、その時の説明で「ここに来るとき、稀に記憶が無くなる場合がある」とかなんとか言われたような気がするが、つまりはそういうことなのだろうか? 確かにそう言われれば、相谷の言動にもある程度納得がいく。
ということは、今どうして自分がここに居るのかもよく分かっていないということなのだろうが、そうなってしまうと、俺がここにいる意味はあるのかという部分に疑問をせざるを得ない。ある程度の時間を一緒の空間で過ごしていたにも関わらず、相谷がここに来なければならない理由というものを俺には見つけることが出来ないのだ。
それはつまり、自分のことで精一杯になった挙句、周りの変化に気付くことが出来なかったということに等しいだろう。
「……俺は、宇栄原とか橋下みたいに、ああいう違和感になにも気付けない人間だ」
その罪悪感が、俺の口を開かせた。
どうして俺がここにいるのかは、ただの誤送だと支配人とかいう人物が言っていた。簡単に言えば俺はまだ生きているし、別に致命的な傷なんて無かった訳で、もっと言うならいつだって帰れる状態だ。
だけど、おれ以外の二人に関してはそうじゃないのだろう。分かっている。何を聞かされなくても分かっているのだ。
「……だから、お前がここにいる理由も、橋下がここにいる理由も教えてやることが出来ない」
綺麗ごとか、はたまた自分の思い上がりか。自分がこいつらと親しかったと言える自信はない。
「どうしたって、分からないんだよな……」
しかし、どうせならこいつらがここでどういう選択をするのか、どういう思いでここを去っていくのか。
せめてそれを、この目で確かめてから帰りたい。
ただ、それだけだった。
「あーなんだ、そういうことか……」
案内人が、何かを納得したかのように独り言を溢す。その瞳は、俺を見据えていた。まるで俺の考えが纏まるのを待っていたかのようなタイミングだった。
「ねえ神崎さん。神崎さんは戻れる人だ。だから、ここで出会った知り合いや、あなたの記憶の中で出会った誰かという存在に惑わされては駄目です。あなたが、その誰かの為にここにいる必要なんてどこにもない」
どこか、俺のことを憐れんでいるようにも見えるその表情と、それらに付随する言葉の数々。
「……同情は行き過ぎると自分を滅ぼすってこと、もう十分知ってるでしょう?」
それらは、俺がここに留まる全ての理由だった。
「もう一度聞きますけど、神崎さんはどうしたいんですか?」
しかし、しかしだ。
「……帰らないと、宇栄原に何言われるか分かったもんじゃない」
帰らないといけないということも、ここに居てはいけないということも分かっている。
「やらないといけないことが、向こうでまだ残ってるんだよな……」
まだ帰りたくないなんていうのは、ただの俺の我が儘だ。
「……羨ましいですね」
「……は?」
「ああいや……。そうやって、自分を想ってくれている人のことを考えて、悩んで。そういうの、私はもう出来ないですから。だから、羨ましいというより……」
案内人の言葉が一瞬止まる。それと同時に視線を逸らすその様子は、なにか過去にあったことを思い出しているかのようなそれに見えた。
「……ま、それはどうでもいいんですけど。じゃあ、取り合えず行きますか」
何かを振り解くかのように、「よいしょお」なんて良いながら、案内人は面倒くさそうに立ち上がる。
「行くって、何処に……?」
「何処ってそりゃ、神崎さんの部屋に決まってるじゃないですかぁ」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
「……あの部屋に行くのか?」
「そんな露骨に嫌な顔しないでくださいよ。確かに、あれは偽りの色ではありますけど。それをどうにかする為にいるのが、我々ですよ?」
案内人は、そうして相谷に視線を送る。
「相谷さんも行きますか?」
「え……」
当然のように、相谷は驚いていた。
「い、いいんですか?」
「いいんじゃないですかね? 神崎さんがいいって言えばですけど」
案内人がそうやって言うと、ふたりは俺に視線を向ける。ああもう、こんな風に今の相谷に見られてしまっては、断るなんて出来ないじゃないか。
「……好きにしてくれ」
それだけ言って、俺はふたりを置いて席から離れようとした。だけど、それは案内人によってせき止められてしまう。
「あ、ちょっと待って下さい。あの人がいるか見てくるので」
俺を制止した案内人は、そそくさと書庫室の扉を開ける。
「掃除士さー……っていないし。あの人仕事早すぎ」
案内人の声が、どこからともなく響く。来た時から思っていたけど、こいつは本当によく喋るし、何より声がでかい。まあ、こういうことはそういう人間のほうが合っているのかも知れないと思えば、自然と納得は出来た。
あの人、またどこか行ったみたいなので多分大丈夫ですね。と、一体何が大丈夫なのかよく分からないが案内人は「早く早く」と急き立てるように手招きをする。それを合図に、俺らは書庫室を後にした。
あの人とは恐らく掃除士のことなのだろうが、そういえば廊下で死んでいるかのように寝ていたあの人物は、普段何をしているんだろうか。いや多分掃除なんだろうけど、そこら辺で寝てる姿しか見たことがないから、その肩書きが本当なのかと疑ってしまう。別にそれを知ったからといってどうもしないけど。
「か、神崎さん」
後ろをついてくる相谷が、俺のことを呼ぶ。
「……なに」
「あの……神崎さんの部屋、何色なんですか?」
ただの興味本位なのだろうが、これまでの相谷に比べれば驚くほどに純粋な顔で聞いてくるそれは、大げさに言うのであればまるで小さな子供のようだった。普段の相谷だったら、こんなことを聞いてくるだなんてことがあっただろうか? そう考えると、少し気持ちに余裕が無くなってしまう。それをどうにか抑えるように、俺は無理矢理言葉を吐いた。
「……お前には教えない」
「えっ」
それだけ答えると、相谷の言葉はそれで止まってしまう。後ろを向いて見えたその様子は、驚いたというよりは完全に落ち込んでいるようだった。
「い、行けば分かるだろ……」
「だ、だって……」
「別に言えばいいじゃないですかぁ。相谷さん、この人の部屋の色って――」
「止めろ」
「ちょっ……蹴らないで神崎さん。分かりましたから」
このお喋り案内人が。とは口に出さないけど、俺の足がそれを訴えるようにして動いていた。こういう人間がこの類の仕事に合っているとかなんとか思ったのは撤回だ。
「あーここですよ相谷さん。行き過ぎです」
案内人が、行き過ぎた相谷の腕を掴む。相谷の部屋がどこにあるのかは知らないけど、その様子からしてこいつの部屋番号は俺よりも早いらしい。
「……ここ?」
「わりと適当なんですよ、部屋の割り振り」
132号室と書かれたドアを、案内人が開ける。入ることに少し躊躇しながらも、ここまで来てしまったのだから仕方がない。覗き込むようにしながら、俺はその部屋に足を踏み入れた。
そして、そこにあった色に俺は目を奪われた。
「……想思鼠(そうしねず)、いい色でしょう?」
それは俺が来た時の色とは違う。本当の色だと、そう思った。
「……ほんとだな」
それはきっと、ここに来て初めて口にした心からの言葉だった。
「……なあ」
だからという訳でもないけど、どうしてか少しだけ我が儘を口にしたくなってしまった。
「なんですか?」
どうやったって、相谷らとは一緒には戻れない。それは、もうどうすることも出来ない事実としてそこに存在してしまっている。でも、どうしてかこの場所に俺が送られてしまって、その先にお前らがいた。出会ってしまったのは紛れもない事実だ。
この場所での俺は、ある意味では異端だろう。だったら別に、これくらい言っても構わないはずだ。
「俺って、ここに来てまだ一週間経ってないよな?」
「まあ一応、そうですね」
「……客の我が儘は、何処まで聞いてもらえる?」
「んー、内容次第ですかねぇ」
「でもまあ――」と、付け加えられた案内人の言葉をが耳に入る。そこに提示された言葉を聞いて、俺は「そうか……」と、端的に言葉だけを述べた。
とある一室を前に、ようやく足が立ち止まる。恐らくは数秒その場で立ち尽くしていたのだろう。落ち着きを取り戻すには、それくらいの時間がどうしても必要だった。扉をノックするという行為に躊躇してしまったのは、今でもそれを行け入れたくなかったからかも知れない。
「……入るよ」
ノックをしたところで返事が帰ってくるわけがないのに、何処か期待している自分がいる。しかし、その期待はいとも簡単に打ち砕かれるということもおれはちゃんと知っていた。
扉が閉まる音と共に聞こえるのは、心音を伝える医療器具の音。近づくたびにはっきりと聞こえてくるその淡々とした音が無意味にすら聞こえてしまうほどに、酷く煩わしく感じてしまう。真っ白という訳でもないが、この簡素な部屋の色が静かな空間の中にいるとより如実に表れているような、そんな気がした。
床の擦れる音が僅かに混じりながら、窓際の棚にある花瓶へと向かう。おれは、既に花瓶に何本かささっている花にそっと触れた。それらの色がやけに目に付いてしまったのは、恐らくこの一室が簡素過ぎるせいだろう。気付けば早々に視界から外していた。目を向けたのは、すぐ横にあるベットだった。そこにいる、包帯が巻かれた痛々しい姿の某人の姿を見るたびに顔が歪んでいくのが分かる。
「拓真……」
無意識に届くはずもないそいつの名前が漏れた。あれから、拓真が事故に巻き込まれてから約二日が過ぎた。医者が言うには、後は本人の体力の問題とのことで後はただただ目が覚めるのを待つ他ないらしい。
拓真の両親はこの時間は仕事のようで、今の時間はおれしかいない。今日も病室に足を運んでしまったのは、図書室に行っても知り合いがいないから。……ただそれだけというには、少し弱い。
学校にいても頭が回らないし、家に居ても落ち着かない。おまけに話し相手もいない。出来る限り頭を整理したいと思えば思うほど、ここに来るのが最善だという他なかった。それでも、気を抜けば言いようのない感情に押しつぶされそうになるのは変わらない。
拓真は、信号を無視して突っ込んできた車に巻き込まれたと警察から聞いた。車は電柱に車がぶつかるまで走り続けたらしく、ボンネットは原型を留めていなかったようだ。運転手は拓真と同様、重体のまま意識はまだ戻っていないらしい。ブレーキを踏んだ後はあったようだが、どうやらそれが正常に作動することがなかったようだ。警察によるとどうやらそういうことになっているらしい。おおかた警察の言う通りなのだろうが、それでもやはり拭えない疑念は当然残る。
事故が起きた場所は雅間さんが亡くなった場所と同じで、学校から図書館へと向かう道。比較的車通りも少なくて、本来なら事故なんてそうそ起こらない場所だ。だが、それが起きてしまった。しかも短期間に二回。恐らく警察は「車の不具合が原因だった」と結論づけるだろうし、別にそれでも構わない。最も、本当に故意ではなかった場合に限るが。しかし、それが本当に真実であるということに関しては、おれは疑問を提示せざるを得ない。そうであって欲しくないと思いながらも、恐らくそうなのだろうという一定の確信と疑念があった。
こんな話、人に言ったところで頭のおかしい奴と思われて相手にされないだろうから基本的には誰にも言わないけど、言わないことによって無駄なストレスが溜まる。唯一言っても許されるであろう人物が目の前にいるのだが、出来れば余り視界には入れたくない。
――既にこの世には存在しない、雅間 梨絵という存在によって起きた事故だと考える余地があるというのを、おれは一体どうやって自分の中で完結させればいいのだろうか?
そもそも確証なんてものは何処にもないし、何より警察に信じてもらえるなんて思ってはいない。でも、その可能性が否定出来ない限りは疑うべきだ。
あの日の自分の携帯電話の履歴を見ると、言い表すことの出来ない苛立ちに溺れそうになる。もっと早く向かって入れば、最悪の事態は免れることが出来たかも知れない。ちゃんと自分の目で確認することも可能だったはずだ。そんなことばかり、考えてしまう。
「……くそ」
その現実を受け止められるほど、冷静になんてとてもなれやしない。
だが、この一連の出来事が人間の手によって起きたものではないのだとするなら、おれにはまだやれることが幾つか残っている。最も本当におれだけでどうにか出来たらの話だが、それをするには状況を整理する時間がどうしても必要だ。
おれは深く、息を吐いた。
拓真の事故に関連した大きな疑問は幾つかある。
雅間さんには直接会ったことはないけど、幾ら生前拓真に恋慕があったからといって、事故まで起こすなんてそう起こることではない。なにか伝えたいことがあったのだろうが、それが未練として残っただけであの場所に留まっていただけなんじゃないかと考えるのが普通だ。だからおれは首を突っ込まなかった。結果最悪の状況になったわけだが、拓真を巻き込むなんていう行動は、端的に言うならあり得ないのではないだろうか?
また、雅間さんの事故は信号を無視した車が巻き起こしたらしいが、拓真の事故も条件が全殆ど変わらないという部分も引っかかる。人通りも車通りも少ない見晴らしのいいあの場所で、同じ条件の事故がこの短期間にこんなにも都合よく二回も起こるものなのか? 現実に起きてしまったのは嫌でも分かるが、理解するのにどうも時間がかかる。
考えれば考えるほど浮かんでくる疑問符。どうにも、真実に至るまでの何かが足りないらしい。
それを払拭するにはどうするべきか? こうなったら、もう当事者に聞くしか道は無いだろう。というよりも、おれが取れる行動は今のところそれしかない。そう結論づけてしまえば、行動は早かった。
「……悪あがきくらいはしないと駄目だな」
悪あがきというのとは少し違うのかも知れない。これ以上の後悔なんてしたくない。ただそれだけだった。
おれが病室から姿を消すのは、もう時間の問題だ。
◇
日付が変わった今日。学校が終わって暫くした後、おれはとある場所へと足を運んだ。
幽霊というのは、比較的こちら側の話を聞いてくれない場合が多い。例えばそこらを漂っているだけの存在であれば特に問題はないし、それだけならおれだって干渉することは基本的にしない。ただ、こういう存在は何か未練があるためにそこに留まっている場合が圧倒的多数を占める。そして厄介なことに、それらが現世に留まれば留まる程彼らの力は邪悪なものになっていくし、『幽霊とは違う別の存在』に目をつけられる可能性が高くなる。本来なら未練もなくそのまま行くべきところに行くというのが理想だけど、寿命ならともかく、例えばある日突然命が絶たれてしまったなどという場合はそうもいかないだろう。そうなる前に何とかするのが一応おれらみたいな視える人間が出来る唯一のことだけど、別にそれをしないからといって誰かに咎められるなんてことはない。やりたくなければやらなければいいだけの話だ。
しかし、やっぱり見て見ぬふりというのは例えもうこの世にいない存在だったとしても、夢見が悪いというものだ。それが知り合いに深く関係しているのなら、尚更である。
「……居るんでしょ?」
一体誰に向けて言っているのか、誰もいないガードレールの電柱付近にむけて声を発する。すると、途端に大きな風が付近から巻き起こった。風と同時に、小さな光の粒がはらりと舞う。それを見た時、おれは静かに息を漏らした。
「雅間さんだよね?」
目の前に現れたのは、隣町の制服を着たひとりの女性だ。電柱の影に隠れ、こちらを伺っているのが見て取れる。本来話しかけることなんて出来ない人物に声をかけているというのはどうにも不思議な気分になる。これが最初という訳ではないものの、こればっかりはどうにも慣れないというものだ。
「はじめまして、おれは宇栄原って言うんだけど……。まあ簡単に言うと、神崎 拓真の知り合いかな」
「……か、神崎さんの?」
おれの口からその名前が出てくるとは思ってなかったのか、想い人の名前を口にした途端大きく目を見開いた。
「会って確認しておこうかなって思って」
そう口にすると全てを理解したのか、より一層視線が挙動不審に陥った。さて、ここからどうすれば波風立てることなく話を聞くことが出来るのか。出来れば考える時間が欲しいものだが、そうもいかない。
「一応言っておくけど、あの人まだ死んでないから」
「で、でもぉ……!」
何がどう相手に刺さってしまうのか、会って間もないのだから分からなくて当然だ。
「私、なにも出来なくて……」
途端に、大粒の涙が零れていく。夕の光と合わさって何処かへと消えていく様は、到底現実では見ることの出来ない光景だろう。
しかし、このお陰で確信はした。
「……ここに来るまで、正直ちょっと雅間さんのこと疑ってた」
雅間さんは、おれの言葉をただただ黙って聞いている。一体どんな気持ちで今までここに居たのか、計り知れる術は存在しない。
幽霊というのは、自分が思っているよりも自我を保てていない場合が多い。今回の場合が典型的なそれだろう。と言いたいところだが、それともまた少し違うらしい。
「でも今日はじめてここに来て、拓真に内緒で一回くらい来ればよかったなって後悔したよ」
手にしていた紙袋の中から、小さな花束を取り出した。時期が時期だったお陰で用意することは叶わなかったが、白い花であることには変わりない。
おれのような存在がこうして話しかけてくるということはどういうことか、どうやら彼女は何となく分かっているらしかった。幽霊ともなると直観が働くのか、それとも最初からその類のモノが分かる人物だったのか。それはこの際どちらでも構わないだろう。
「今日は、私のこと消しにきたんですか……?」
「違うよ。まだおれは、拓真の口から何も聞いてない。雅間さんだってそうでしょ?」
涙を拭い、堪えながら必死におれの話に耳を傾けている。その純情な様子、恐らく拓真も惹かれる部分はあったんじゃないだろうか? 最も、拓真が本当にどう思っていたのかについてはちゃんと聞いてはいない。一度だけ、それに近い言葉を拓真が口にしたことがあったが、あれはどちらかと言うと囃し立てたおれらが悪い。あえて聞いていないということにしておこうと思う。
「それに、拓真とは約束しちゃったから。バレるようなことはしないよ」
そうは言うものの、少し苦笑いに近くなってしまっただろうか? 確かに、おれがその行動をしてしまったほうが断然解決は早いのかも知れない。しかし、世の中には忖度というものがある。そう簡単にやってしまっては、ここまでの事態に陥った理由も無くなってしまうというものだ。
本当は、おれからじゃない方がいいんだろうけど。一応そう付け加えることにして、雅間さんに花束を差し出した。
「またすぐに戻ってくるとは思うけど、万が一ってことがあるからちゃんと持っててね。理由は……言わなくても分かるよね?」
これはあくまでも、拓真の意識が戻るという前提の話だ。更に言うのであれば、おれの身にこの先何も起きないという条件つきのもと。僅かに躊躇しながらも、おれの意思が乗ったその花束に彼女が触れる。しっかりと手に渡ったことを確認して、おれはようやく落ち着いた笑みを零した。
「また来るね」
花束から落ちる光がおれの力によるものなのか、それとも空からの光を浴びたダイヤモンドリリー自身のものなのかは分からない。紙袋の中にまだ残っているとある花を視界に入れないよう必死に目を配らせながら、おれは足を翻した。
◇
「……なんだ、ここ」
俺がこの場所に来た時に発した第一声は、特に面白みもない言葉だった。
一面の白。そうであるのに、なにかこの世のものではない黒い何かが這っているように感じたのは、恐らく気のせいではなかったのだろう。背筋が凍るとはよく言ったもので、背中の辺りから徐々に焦りにも似た恐怖のようなものがせり上がってきたのを感じた。
ここに居てはいけない。俺の中の直感的な何かがそう警告をしているのがよく分かる。しかし、辺りを見回してみても何も存在しないこの空間の中で何をすることも叶わない。視えない何かの気配が背中を刺す。だが振り返ってもそこには何もいないのだ。確実に焦っているのが自分でもよく分かる。それくらいに、いつもより鼓動が酷く騒がしい。
これはまずい。直感的なそれとは別に、一瞬にして鳥肌が立った。
体中に見えない何かが這いつくばってくるような見えない気配。
普段だったら到底あり得ないであろう、心臓をそのまま掴まれそうになるこの拭いようのないこの感覚。
俺という存在が『死ぬ』という前触れのようで、途端に嘔気に晒される。その時だった。
『――全く、集るなんて無様だな』
誰かの冷ややかな声が後ろからしたと思ったと同時に、何かに腕を掴まれた。俺以外に誰もいなかったはずの空間に突然現れたそのひとりの男の手が、俺にようやく感覚を取り戻させた。
万年筆のようなモノを手にしたその男のが現れた途端今まで取り巻いていた空気が一変、一瞬で何かが消えていくような感覚が走った。さっきまでの嘔気すらも無くなってしまったほどだ。
『ああ、良かった。間に合わなかったらどうしようかとヒヤヒヤしたよ』
帽子を被り直しながらそう口にした男は、自身のことを『支配人』と呼んだ。
そいつに連れられて訪れた、『time out』という場所。支配人という人物曰く、ここはとある条件下によって訪れた人間の魂が、『魂の浄化』をする目的で作られた場所であるらしい。どうやら本来俺はその条件外らしく、俺がこの場所に来たことが異常事態であるということから、記憶の選定が行われなかったんだとかなんとか。なんか色々言ってたけど、正直余り覚えていない。あの心臓をそのまま掴まれたかのような感覚が忘れることが出来ず、上の空だったのだ。
「ここに来てしまったという事態は、起きてしまったことだからこの際置いておこう」
飄々とした支配人の目は、俺をしっかりと捉えている。
「キミ、向こうに戻る気はあるかい?」
「……向こう?」
「簡単にいうと、キミがさっきまで居た世界さ」
言っている意味が、よく分からなかった。
「キミは別に、ここに居る必要のないニンゲンだ。だからというわけではないが、戻ろうと思えばいつでも戻れるんだよ。但し、逆に言うなら戻らないという選択も可能でね」
ここに来る前のことは、かなり鮮明に覚えている。
支配人は、俺がまだ生きていると言った。しかし、この異様な空間の中で本当に俺が生きているのだろうか? そんな疑問が拭えない。だってあの時、ここに来る前の出来事で俺はどうなった?
それを思い出すだけでこんなにも息が詰まるというのに、この人は、俺がまだ死んでいないと言うのだろうか?
「……別に、それに轢かれたからといって必ず死ぬという訳ではないのだろう?」
どうやら、俺の考えていることは支配人には全て露見しているようだった。それには確かに驚いたし、ある意味では不快だった。しかし、この場所においてそれは本当に些細なことであるということを、これから嫌になるほど痛感することになる。
「さっきも言ったが、ここはある意味では魂の停留所だ。だが、言ってしまえば今のキミには関係のない場所だし、ワタシとしてはこのままキミは向こうに戻るという選択をするのが本来あるべき姿だと思っている。でもね、ワタシはここに来た人物の意思というものを出来るだけ尊重したい。どうやら、ただの事故ではないようだからね」
ただの事故ではないというのは、雅間というもう消えた存在が起こしたことだからということなのだろうか? というか、俺はここに来て数分しか経っていないはずなのに、なんでこいつは俺が事故にあったことを知っているんだ? 俺はまだ、この場所に来てまだ数回しか口を開いていないというのに。
「……どうする?」
現実ではない、何処か夢にも通ずるところがある空間。本来ならば、こんなところすぐにでも出ていくのが先決なのだろう。そんなことは分かっている。分かってはいる。しかし、その問いに俺はどうしてかすぐに答えることが出来なかった。
「まあ、どちらにしても猶予は一週間だ。それまでに答えを聞かせてくれ」
ああそれと……。言い忘れていた、と続きそうな言葉を経て、支配人は更に言葉を続けた。
俺よりも前にこの場所に来ている人物がいるという話だった。
「……あいつ、本当にここにいるのか?」
そいつの名前は『橋下 香』という、俺のよく知っている人物だった。
「居るよ。見に行くかい?」
そう問われ、俺は思わず言葉を噤んだ。
決してここに来る前に喧嘩したとかそういう訳でもないし、特別な理由があるわけでもない。恐らくそれは橋下も同じなのだろう。意味もなくばつが悪かったのだ。
「まぁ別に今すぐじゃなくても構わないけどね。彼はキミよりも早くここにきているから、そこまでの時間はないよ。それだけ念頭に入れておくといい」
「……なんで橋下がここにいるんだ?」
俺がここに来た理由もさることながら、橋下がいるというのもよく分からない。というより、正直理解が及ばなかった。
「気になるなら、会って聞いてみたらいいんじゃないかな?」
それだけ言うと、次は案内人が俺の相手をし始めた。どうやら、こいつは俺を部屋まで案内する役目を担っているらしい。案内された場所は、急遽用意されたらしい『132号室』。どうやら、そこが俺の部屋のようだった。
道中の廊下には、当たり前の様に掃除士という人物が死んだように寝転がっていた。「急だったから、疲れてるんですよ」とか最もらしいことを案内人は言っていたけど、掃除ってあんなになるまでしないといけないようなことだっただろうか?
転がっている掃除士はそのまま、案内人が部屋の扉を開ける。視界に入った部屋を見て、俺は思わず時間という概念を忘れた。
「黄色……?」
「梔子色(くちなしいろ)ですよ」
「クチナシ……」
なにかがおかしい。そう思ったのは、それが俺の目に入ってすぐのことだった。
一面が黄色の部屋。ただそれだけのことなのにかなり居心地が悪い。それは決して白い場所から急にこの色が目に入ったからとか、そういうことではない。
まるで計ったかのような名前の色に囲まれたこの場所。
「この色、嫌いですか?」
案内人の問いに答えるのは、とても簡単だった。
「……大っ嫌いだ」
その言葉は、俺の口からいとも簡単に零れていった。
「……なら書庫室にでも行きます? 今ならまあ……橋下さんも来ないでしょうし。それに眠いでしょう?」
「……そんなこと言われたら眠くなるだろ」
「それは自覚がなかっただけだと思うんですけどねぇ」
ただの客の我儘に、どうして案内人がここまで気を遣ってきたのかは今でもよく分からない。でも、その言葉を聞いてしまってからは確かにとても眠気に襲われていた。眠くて、眠りについたらそのまま一週間が終わってしまいそうで、それにのまれたらきっと本当に全てが終わってしまうのだろうと思ってしまうほどだった。男の言う通りにするのは少々不服だったが、ここに居るよりは断然ましだろう。そう判断した。
案内をされてから暫く。どれくらいの時間が経ったのかは知らないが、すっかり寝入ってしまった俺を無理矢理起こしに来たのは、またしても案内人だった。
「神崎さーん。起きてます?」
「……今度はなんだ」
「相谷 光希って人、知ってますよね?」
また聞きたくない名前が、耳を掠めた。
「……なんでそんなこと聞くんだよ?」
「いや、そのうち来ると思うので一応聞いておこうかなと思って」
なんでこんなにも、立て続けにここに知り合いが来るんだ? 偶然? 本当にそうか? ある一定の条件下じゃないと来ることが出来ないらしいこの空間に知り合いが三人も集まるだなんて、それを偶然だと本当に言えるのだろうか?
「知り合いなんですよね?」
次にこいつの口から出てくる言葉なんて、どうせ決まっている。
「会いますか?」
「……んなこと聞くなよ」
「もー、神崎さん。そんなんだとすぐ一週間経っちゃいますよ?」
だったらなんだ?
「戻りたくないんですか?」
戻るとか戻らないとか、そういうのは今どうでもいい。少なからず、あの二人がここに来ないといけないような状況が俺の知らないところであった。そしてそれに気付けなかった。
その事実は、俺をここに留まらせるのには十分過ぎる。
「あー……どーりで……」
なにかひとりで勝手に納得している案内人は、続けて言葉を並べた。
「まあ、どっちにしろ相谷さんは連れてきますから。別に部屋に逃げてもいいですけど、それをしないなら覚悟はしておいてくださいね?」
それだけ言って、案内人は俺の前から姿を消していく。
どうして相谷にまで会いたくなかったのか? その答えは至って簡単だ。
もし会ってしまったら、俺はきっと自分も残るというとかいう行動を本当に取ってしまいそうだった。現に会ってすらいないにも関わらず、確実にその行動を取ってしまいかねないような思考だった。
でも、この考えは矛盾していることも知っている。戻るべきであるということも分かっている。
最初ここに来た時、もし本当に雅間が俺を殺そうとしてたのだとしたら戻らない方がいいんじゃないかと思った。それが最善だとするならそうしていた。しかし、向こうにはまだ宇栄原がいるはずだ。だとするなら、俺が帰らないという決断をしてしまってはあいつはどうなるだろう? 自分のことよりも幽霊のことを気にするようなやつだ。恐らく自分のことばかり責め立てるだろう。それなら戻るという決断のほうが正しいだろうし、そもそもここに来てしまったのが異例なのだから留まるという選択肢があるのもおかしな話だ。
しかし、橋下がここに居るということを知り、おまけに相谷までここに来るらしいということを知ってしまった。
ここに留まったからといってそれで何かが解決するなんてことは思っていない。そこまで自分に影響力があるとも思っていない。帰るべきだというのは十分分かっている。でもだからこそ、決められなかった。こんなところでなんて会いたくなんてなかったふたりの知り合い。それが、俺の考えを少しだけ歪ませた。
――あくまでもこれは、もしもの話だ。
出来ることなら、今この時間もいつものように宇栄原がいて、よく喋る橋下がいて、若干面倒くさそうにしている相谷がいる。それが理想だ。
その未来が俺を待っていたのなら、俺はこの場所でこんなに悩むことは無かったのかも知れない。
◇
「神崎さん神崎さん」
「……なんだよ」
うるさい案内人という人物が、しつこく俺に声を投げた。
「神崎さんって中々ここから出ていかないですけど、本当にそれでいいんですか?」
「……どういう意味だ?」
「どういう意味もなにも、そのまんまですよ」
向かいのソファに座って、肘掛けを使って頬杖をついているこの案内人という男が言いたいのは、つまり「帰るチャンスがあるのに、どうしてまだここに居座っているのか」ということなのだろう。その問いに俺は答えることをしなかった。代わりに相谷に飛び火した点に関しては、少々申し訳なさが募る。
「相谷さんはどう思います?」
「え……ぼ、僕?」
案内人の左手に座っていた相谷は、突然名指しされたからかとても焦っていた。
俺とばっちり目を合わせたかと思うと、考えが纏まらないといった様子で、目を泳がせていく。目を逸らされるのはわりといつものことだけれど、ここまで挙動不審なところは見たことがない。正直調子が狂う。
「えっと……帰れるなら、帰った方がいいと思いますけど……」
「ほらあー。知り合いがそう言ってるんですから、聞いておいた方がいいと思いますけどねぇ」
完全に案内人に言わされているような気がしなくもないが、それはこの際置いておく。俺だって別に、こんなところに居たくて居るわけじゃない。
ただ、気になることがあるだけだ。
「……あ、あの」
相谷の声が、俺に向けられる。実に久し振りに感じたが、そもそもこうして喋ったことがあったかどうかすらも怪しいくらいだ。
「先輩は、どうしてここにいるんですか……?」
「……そういうお前こそ、どうしてこんなところにいるんだよ」
「ぼ、僕は……だって……」
段々と、相谷の声が小さくなっていく。言い澱むそれに続く言葉を探しているからなのか、もしかしたら聞いてはいけないことだったかもしれない。少しばかりの沈黙に耐えられなくなったのか、相谷が再び口を開いた。
「ここに来たとき、自分の名前も覚えてなくて……」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。そう言って俯いたっきり相谷と目があうことはなかった。一番最初、ここに来た時支配人とかいう人物に名前の確認されたのだが、その時の説明で「ここに来るとき、稀に記憶が無くなる場合がある」とかなんとか言われたような気がするが、つまりはそういうことなのだろうか? 確かにそう言われれば、相谷の言動にもある程度納得がいく。
ということは、今どうして自分がここに居るのかもよく分かっていないということなのだろうが、そうなってしまうと、俺がここにいる意味はあるのかという部分に疑問をせざるを得ない。ある程度の時間を一緒の空間で過ごしていたにも関わらず、相谷がここに来なければならない理由というものを俺には見つけることが出来ないのだ。
それはつまり、自分のことで精一杯になった挙句、周りの変化に気付くことが出来なかったということに等しいだろう。
「……俺は、宇栄原とか橋下みたいに、ああいう違和感になにも気付けない人間だ」
その罪悪感が、俺の口を開かせた。
どうして俺がここにいるのかは、ただの誤送だと支配人とかいう人物が言っていた。簡単に言えば俺はまだ生きているし、別に致命的な傷なんて無かった訳で、もっと言うならいつだって帰れる状態だ。
だけど、おれ以外の二人に関してはそうじゃないのだろう。分かっている。何を聞かされなくても分かっているのだ。
「……だから、お前がここにいる理由も、橋下がここにいる理由も教えてやることが出来ない」
綺麗ごとか、はたまた自分の思い上がりか。自分がこいつらと親しかったと言える自信はない。
「どうしたって、分からないんだよな……」
しかし、どうせならこいつらがここでどういう選択をするのか、どういう思いでここを去っていくのか。
せめてそれを、この目で確かめてから帰りたい。
ただ、それだけだった。
「あーなんだ、そういうことか……」
案内人が、何かを納得したかのように独り言を溢す。その瞳は、俺を見据えていた。まるで俺の考えが纏まるのを待っていたかのようなタイミングだった。
「ねえ神崎さん。神崎さんは戻れる人だ。だから、ここで出会った知り合いや、あなたの記憶の中で出会った誰かという存在に惑わされては駄目です。あなたが、その誰かの為にここにいる必要なんてどこにもない」
どこか、俺のことを憐れんでいるようにも見えるその表情と、それらに付随する言葉の数々。
「……同情は行き過ぎると自分を滅ぼすってこと、もう十分知ってるでしょう?」
それらは、俺がここに留まる全ての理由だった。
「もう一度聞きますけど、神崎さんはどうしたいんですか?」
しかし、しかしだ。
「……帰らないと、宇栄原に何言われるか分かったもんじゃない」
帰らないといけないということも、ここに居てはいけないということも分かっている。
「やらないといけないことが、向こうでまだ残ってるんだよな……」
まだ帰りたくないなんていうのは、ただの俺の我が儘だ。
「……羨ましいですね」
「……は?」
「ああいや……。そうやって、自分を想ってくれている人のことを考えて、悩んで。そういうの、私はもう出来ないですから。だから、羨ましいというより……」
案内人の言葉が一瞬止まる。それと同時に視線を逸らすその様子は、なにか過去にあったことを思い出しているかのようなそれに見えた。
「……ま、それはどうでもいいんですけど。じゃあ、取り合えず行きますか」
何かを振り解くかのように、「よいしょお」なんて良いながら、案内人は面倒くさそうに立ち上がる。
「行くって、何処に……?」
「何処ってそりゃ、神崎さんの部屋に決まってるじゃないですかぁ」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
「……あの部屋に行くのか?」
「そんな露骨に嫌な顔しないでくださいよ。確かに、あれは偽りの色ではありますけど。それをどうにかする為にいるのが、我々ですよ?」
案内人は、そうして相谷に視線を送る。
「相谷さんも行きますか?」
「え……」
当然のように、相谷は驚いていた。
「い、いいんですか?」
「いいんじゃないですかね? 神崎さんがいいって言えばですけど」
案内人がそうやって言うと、ふたりは俺に視線を向ける。ああもう、こんな風に今の相谷に見られてしまっては、断るなんて出来ないじゃないか。
「……好きにしてくれ」
それだけ言って、俺はふたりを置いて席から離れようとした。だけど、それは案内人によってせき止められてしまう。
「あ、ちょっと待って下さい。あの人がいるか見てくるので」
俺を制止した案内人は、そそくさと書庫室の扉を開ける。
「掃除士さー……っていないし。あの人仕事早すぎ」
案内人の声が、どこからともなく響く。来た時から思っていたけど、こいつは本当によく喋るし、何より声がでかい。まあ、こういうことはそういう人間のほうが合っているのかも知れないと思えば、自然と納得は出来た。
あの人、またどこか行ったみたいなので多分大丈夫ですね。と、一体何が大丈夫なのかよく分からないが案内人は「早く早く」と急き立てるように手招きをする。それを合図に、俺らは書庫室を後にした。
あの人とは恐らく掃除士のことなのだろうが、そういえば廊下で死んでいるかのように寝ていたあの人物は、普段何をしているんだろうか。いや多分掃除なんだろうけど、そこら辺で寝てる姿しか見たことがないから、その肩書きが本当なのかと疑ってしまう。別にそれを知ったからといってどうもしないけど。
「か、神崎さん」
後ろをついてくる相谷が、俺のことを呼ぶ。
「……なに」
「あの……神崎さんの部屋、何色なんですか?」
ただの興味本位なのだろうが、これまでの相谷に比べれば驚くほどに純粋な顔で聞いてくるそれは、大げさに言うのであればまるで小さな子供のようだった。普段の相谷だったら、こんなことを聞いてくるだなんてことがあっただろうか? そう考えると、少し気持ちに余裕が無くなってしまう。それをどうにか抑えるように、俺は無理矢理言葉を吐いた。
「……お前には教えない」
「えっ」
それだけ答えると、相谷の言葉はそれで止まってしまう。後ろを向いて見えたその様子は、驚いたというよりは完全に落ち込んでいるようだった。
「い、行けば分かるだろ……」
「だ、だって……」
「別に言えばいいじゃないですかぁ。相谷さん、この人の部屋の色って――」
「止めろ」
「ちょっ……蹴らないで神崎さん。分かりましたから」
このお喋り案内人が。とは口に出さないけど、俺の足がそれを訴えるようにして動いていた。こういう人間がこの類の仕事に合っているとかなんとか思ったのは撤回だ。
「あーここですよ相谷さん。行き過ぎです」
案内人が、行き過ぎた相谷の腕を掴む。相谷の部屋がどこにあるのかは知らないけど、その様子からしてこいつの部屋番号は俺よりも早いらしい。
「……ここ?」
「わりと適当なんですよ、部屋の割り振り」
132号室と書かれたドアを、案内人が開ける。入ることに少し躊躇しながらも、ここまで来てしまったのだから仕方がない。覗き込むようにしながら、俺はその部屋に足を踏み入れた。
そして、そこにあった色に俺は目を奪われた。
「……想思鼠(そうしねず)、いい色でしょう?」
それは俺が来た時の色とは違う。本当の色だと、そう思った。
「……ほんとだな」
それはきっと、ここに来て初めて口にした心からの言葉だった。
「……なあ」
だからという訳でもないけど、どうしてか少しだけ我が儘を口にしたくなってしまった。
「なんですか?」
どうやったって、相谷らとは一緒には戻れない。それは、もうどうすることも出来ない事実としてそこに存在してしまっている。でも、どうしてかこの場所に俺が送られてしまって、その先にお前らがいた。出会ってしまったのは紛れもない事実だ。
この場所での俺は、ある意味では異端だろう。だったら別に、これくらい言っても構わないはずだ。
「俺って、ここに来てまだ一週間経ってないよな?」
「まあ一応、そうですね」
「……客の我が儘は、何処まで聞いてもらえる?」
「んー、内容次第ですかねぇ」
「でもまあ――」と、付け加えられた案内人の言葉をが耳に入る。そこに提示された言葉を聞いて、俺は「そうか……」と、端的に言葉だけを述べた。