09話:クチナシが馨る


2024-08-14 23:55:54
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
 ――時間は、刻一刻とひとつの事象へと向かっていく。

「か、神崎さんっ」

 六月の上旬の話だ。つまりは、雅間のそれが起きるほんの数週間前のこと。
 小さな声で、誰かが俺の名前を呼ぶ声がする。後ろを振り向くと、そこには当たり前のように雅間の姿があった。

「……お前、暇なのか?」
「そ、そんなことないですよ!」

 最もらしい言葉を口にはしたけど、勉強するだけだったら別に家でいい訳だから、結局はこいつと理由は大して変わらなかったのかも知れない。
 図書館に来るたびにいつも出会うこいつ。大げさかも知れないが、行くたびにほぼ毎回会っているような気がしてならない。お互いに別の高校のだから普段会うことがない分余計そう感じているのだろうが、それが特別嫌だという極端な話になるわけでもなかった。雅間がいない日は何となく探してしまっているのは事実だし、見つけたらそれこそ目で追ってしまう。だが、決してそれ以上の何かがあるわけではない。俺に限ってはの話だ。

「……飽きないな。その作者の本ばっかり読んで」

 雅間が手にしているのは、大分前に俺が手に取ったフェア・ウェルが書いた例の本だ。

「はは……。この本、家にも一応あるんですけどね」
「……家で読むんじゃ駄目なのか?」
「だ、駄目じゃないですよ? 駄目じゃないですけど……」

 そう言いながら、雅間は間隔を開けて俺の左隣りに腰をおろす。一時の静かな空間が、辺りに蔓延っていた。

「あ、あのっ……」
「……何?」

 それはもう、この静寂にすらかき消されてしまいそうな小さな声で雅間が話しかけてくる。なんというか、それはいつもの雅間にしてはらしくない行動に見えた。俺たちは図書館で会っても別に何かを話すわけでもなかったし、話す、という部分だけでいうのなら、せいぜい帰り際に鉢合わせてしまった時くらいだ。
 図書館という静かであることが前提としている場所だから敢えて話さないようにしているのか、それとも気を使っているだけなのか、はたまた別の理由があるからなのか。俺に分かる術などない。

「えっと、その……。私の家にあるクチナシの花、あともう少しで、咲きそうなんですよ」
「ふーん……」
「だから、その……」

 小声で話している分、言いよどむ彼女の声が余計に聞き取りづらくなっていく。次に発せられた言葉は、まるで取ってつけたようなものに聞こえた。

「は、早く咲いたら……いいなあって」
「……あ、そう」

 話がかみ合っているようないないような、結局雅間が何を言いたかったのかよく分からなかった。クチナシの花が咲きそうだから。その先に繋がる言葉は、本当に「早く咲いたらいいな」だったのだろうか?
 なんというか、もう気になって集中出来ない。だが、それを聞きなおすという行為はどうしても胆力が必要だった。クチナシの花がどうとかいう話、確かにいつだったかに雅間としたような気がしないでもないが……。
 しかし、口にするのが無理だと一口に言っても全く方法がないわけではない。既に左手に握りしめられていたシャープペンシルは、俺の意思をもって目の前のノートに文を書き連ねていった。それは、至極簡単であるにも関わらず口から出ることを拒んだ言葉。殴り書きのようなそれが書かれたノートを、俺は左に座っている雅間にわざとらしく寄せる。この時の俺には、自身の心臓の音しか聞こえていないし、雅間がどういう表情をしているのかなんて何も分からない。何故なら、俺は雅間のいない方向へと顔を向けているからだ。
 たった一言、雅間に向けられて書いただけのそれが、どうしてこんなにも俺の心臓を動かしているのだろうか? どうして、雅間の顔を見れないくらいに動揺しているのだろうか?

『……見に来いってことか?』

 どうして、このたった一言がいえないのだろうか?
 ……そんなこと、俺の知ったことではない。あり得ないことではあるけど、図書館に蔓延る静寂に俺の心臓の音が響いているような、そんな気がした。
 ノートが俺のひじをつく。それは、雅間が返事をよこした合図だったのだろう。ちらりと、ノートの端に書かれているそれを視界に入れた。

『き、来てくれるんですか?』

 その一言を見て、俺は思わず雅間の顔を見る。そこで今日始めて顔を合わせたかのような新鮮さに、思わず目を見開いた。そこには、俺が今まで体験したことのないような、言いようのない感情が含まれているような気がしたのだが、当の俺にはそれはまだ理解が出来ないでいる。表現することの出来ないこの感情に合わせ、雅間の顔を真っ直ぐに見ることが出来ないくらいに俺は馬鹿なのだ。

「……暇だからな」

 そんな言葉すら雅間のことを見ながら言うということが出来ないくらいに、恐らくは大馬鹿者だ。


   ◇


 全然だめだ。
 今日は、全ての出来事がどうにも頭に何も入ってこない。授業だって気付いたら終わっていたし、あっという間に学校での一日が終わってしまいそうだった。

「……宇栄原」

 でも、それを繋ぎ止めたのは、学校の図書室という俺にとっての日常的空間だった。

「なに?」

 こういうことを宇栄原に聞くのは非常に不本意だが、他に聞けるような人物が他にいない。ただそれだけの理由で、俺は宇栄原の名前を口にした。

「……女子の家に行くときって、どうしたらいいんだ?」
「え?」

 それは、純粋な俺の疑問だった。それは当然だろう。そもそもどうしてこんなことになったのかも、未だによく分かっていない。原因は俺だったような気がするが、もうこれ以上は考えたくないものだ。
 宇栄原は一瞬驚いた様子を見せたものの、空を見つめて何かを考えはじめる。答えが見つかったのか、その目は俺を捉えていた。

「……もしかして、雅間さんの家行くの?」

 相変わらずこいつは察しがいい。有難いといえば確かにそうだが、こういう場合、大抵は話が逸れるというのが常だ。

「……なんか、知らない間にそんな話になってた」
「はー……」

 驚いているのか、感心にも近いそれを口から溢しているがその反応は一体なんだ? やっぱり言わなきゃ良かったのかも知れない。

「……拓真って、意外と積極的だね?」
「な、なんだよそれ……」
「ホントですねー。オレ、先輩ってそういうのに奥手な人だと思ってましたけど。ねえ、相谷くん?」
「え……」

 突然間に入ってきた橋下は、さらに突然話を相谷に振る。そのせいで沈黙が流れてしまった。こいつ、相谷は俺らと目が合うと大体すぐ目を逸らすんだけど、今日だけは少し様子が違った。

「……まあ」

 しかし、それだけ言うとまたいつものように目線が外れた。なんだ「まあ」って。どういう意味だ。

「それより先輩、ひとつ聞きたいんですけどー」
「なんだよ」
「その雅間さん? って人の家に行くってことは、先輩ってその人のこと好きなんですよね?」

 突然橋下から発せられたとある単語。それの意味がよく分からなくて、明らかに俺の時は止まっていた。

「……え?」
「いや、え? じゃなくて。違うんですか?」

 俺が引っかかった、こいつが口にした『好き』という意味。それはどういうことだ? つまりあれか? いわゆる恋愛感情的なそういうあれか? そんなことが、果たしてあり得るのだろうか?

「……まじで?」
「いやおれに言われても困るんだけど。違うなら違うって今のうちに言っておいた方が良いと思うけど」

 宇栄原にそう言われ、少しだけ考えた。まさか、そんなことあり得ない。はっきりとそう言うことが出来れば、寧ろよかったのかも知れない。でも、俺はそれが出来なかった。
 思い当たる節が全くないというわけではない。それは流石に分かる。図書館に雅間がいるかを気にし始めたり、見つけたら目で追っていたり、「クチナシの花が咲くの楽しみなんです」とか言いながら本を眺めている雅間を見て、どうしてかいつもソワソワしていた。それがもし、こいつらの言う『好き』という感情を体現していたのだとしたらどうだろう?

「……全然わからん」

 しかし、それも何を持ってしてそういう結論に至るのかもよく分からなかった。

「……どういうことですか?」
「さあ……。そのまんまの意味じゃない?」

 いや、ちょっと待て。それ以前の話、誘ったのは俺だったか? いや、結果的に俺が誘ったみたいな空気になってるけど、一番最初に話を持ちかけたのは誰だ?
 その答えは、確かに時間すらいらない程に簡単だった。

「いや、それはないよな……?」

 もう、周りの雑音なんて耳に入っていない。頭の中は、どう足掻いても雅間のことで頭がいっぱいだった。
 数日後の土曜日。その日が来るまで、俺の気は休まりそうにない。


   ◇


 あれから数日後。とても長く感じたなんの変哲もない平日が終わり、ついに土曜日が来てしまった。
 とある駅の外。気持ち早く着いてしまったせいで、無駄に視線をうろうろさせてしまう。つまりは落ち着きがなかった。昨日の放課後、「っていうか、それって普通にデートですよね?」とかなんとか言っていた橋下のせいで、なんか余計なことまで考えてしまう。あいつ、月曜になったら絶対倒す。
 自転車で行けるほどの距離。それをわざわざ歩いて来てしまったのは、どっかの誰かのせいでもある。「いや、電車で行った方が良くない? 自転車あったら話すのに邪魔でしょ」とかなんとか言っていた宇栄原とかいうやつ。どうしようか色々と考えた結果、あいつの言う通りになってしまった。こいつも後で倒す。相谷は……別にどうでもいいとか思ってそうだから気にしないでおく。それよりも……。

「あ……神崎さん……っ!」

 待ち人の声が何処からか鮮明に聞こえてきたことにより、考えていたことが全て払拭されてしまった。左を向けくと、そいつが近付いてくるのがよく分かった。いつもと違う服に身を包んだ雅間を前に、さながら目を奪われた。今まで制服姿しか知らなかったのだから、当然といえば当然だろう。

「すみません、待ちましたか?」
「いや、今来た……」

 じっと、雅間から目が離せなくなっている自分に気付くのは、次に発せられた雅間の言葉を聞いてすぐだった。

「な、なにか……?」

 そうして、俺がはじめて雅間を凝視していることに気付く。こうなってしまっては、いつもと違う雅間の姿を今度はちゃんと見ることが出来なくなってしまう。

「別に……」

 何か言葉を返さなければいけないと覚えば思うほど適当な返事をしてしまう。長年こうなのだからもう直すのは到底無理だろう。

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ! そっちじゃないです!」

 雅間の声は、今の俺に届いていない。我に帰るのは、もう少し後のことだった。どうやらこいつの家はここから十分程度らしく、雅間の言う通りに道なりに進んでいく。その間、特に何かを話すということはしなかった。手を伸ばしても届くかどうか。それくらい微妙に開いているふたりの距離が、それを物語っていた。

「あ、あのっ」

 ようやくといったところか、最初に声を出したのは雅間だった。

「今日は、なんか、あの……すみません。気付いたらこんなことに……」
「な、なんで謝るんだよ……」
「いやだって、よく考えたら……」

 よく考えたら、の続きが一向に返ってこない。そこから先の言葉は何なのかは知らないが、まあ確かに、展開的に言えばどうしてこうなったのかよく分からないところはある。というか、このご時世お互いの連絡先を知らないにも関わらず、異性の家に行くなんてことあるだろうか?

「……嫌じゃなかったら来ないだろ」
「そ……そうですよねっ」

 世の中は、おかしなことだらけで溢れている。

「あ、ここですよ」

 そうしてたどり着いた、雅間の家。一軒家の、それなりに大きな家がそこにはあった。

「ちょ、ちょっと待っててくださいね」

 ひとり急ぎめに家に入っていく雅間のうしろ姿を、そのまま見送る。ほんの少しした後、なにか大きな音が家の中から聞こえてきたような気がした。余り気にしてはいけないのだろうが、急に何も聞こえなくなったせいで余計気になってしまう。かと思うと、雅間が徐に玄関を開けて戻ってきた。

「は、入ります……よね?」

 恐る恐る聞いてくるその様子に、俺は肯定も否定も出来なかった。

「ど、どうぞっ」

 結果、促されるまま家の中へと足を運ぶことになった。もうこの際、さっきのは何も聞かなかったことにしようと思う。左手にあるリビングへと通され、流れるままソファに座った。テーブルには、既にカップに入った紅茶らしきものとクッキーが置かれてあった。

「た、食べますか?」

 一応、といったていで聞いてはくるけど、なんていうか、そんな目で見られてしまっては食べるしかほかない。適当に目に付いたものをひとつ手に取り、口に運ぶ。お世辞などではなく普通に美味かったのだが、こういうの、ちゃんと素直に言える人間だったらよかったのかも知れない。左手は、既に独りでに次のクッキーを求めていた。
 ふと、視線は自然と窓から見える庭へと向かう。ここから見ても良くわかるくらいによく色が溢れていた。特に、今の時期によく映える紫色が目に入る。

「……あれ、アヤメだろ?」
「え? あ……よ、よく分かりますね」
「まあ……」

 これだと、本当にただ花が好きな男がクチナシを見に来ただけになってしまう。まあ、あながち間違いではないのだが。庭、行ってもいいか? という今日初めてレベルの俺の主張に、一瞬だけ驚いたような様子を見せる雅間だったけど、「は、はいっ!」と元気な返事が返ってきた。バタバタと音を立てて一足早く玄関へと向かうそいつを見て、思わず急いで紅茶を口にした。
 玄関で靴に履き替えて、庭へと向かう。微かに香る花の匂いのせいで、俺を誘っているのではないかというような錯覚に陥った。

「大体は母の趣味なんですけど……あのっ、この辺りは私が好きにやってるっていうか……」

 雅間が「この辺り」とジェスチャーで主張している箇所には、忘れかけていた今日の目当てであるクチナシがあった。青々とした葉っぱの中にある、まだ花が咲く前のそれが幾つも存在しているのがよく分かる。
 庭をちゃんと見渡すと、花の色味とか、いつどのタイミングで花が咲くのかまでちゃんと計算されているように見えた。……庭を見ただけで分かってしまうというのは、さながら少し気色が悪い。

「……花、好きなんだな」
「す、好きっていうか……まあ、好き……なんですかね?」

 どうしてそこで疑問形になるのかがよく分からなかったが、ここまで綺麗に整備して、かつ色使いだって初心者のそれとは違うのが分かる。嫌いというにはほど遠いだろう。こういうの、俺はずっと見ていたくなるんだけど、多分希少な部類に入るのだろうか。そのせいか、さっきから雅間の視線が明らかに俺を刺していた。

「……なに」
「えっ! いや、は、花が綺麗に……咲いてるなあって!」
「あ、そう……」

 明らかに声が上ずっている。それが一体何を意味するのか、俺には分からなかった。いや、分かってしまいたくなかったのかも知れない。

「……その、クチナシって、あと一か月もしないくらいで咲くじゃないですか。毎朝咲いてるかなって確認して、学校が終わって家に帰ったらまた確認して……。あの、周りからしたらちょっと過敏過ぎなのかもしれないんですけど、なんていうか……。そういうの、私はとても楽しいんです。あ、いや……別にだからどうってわけじゃないんですけど」

 前から思っていたけど、こういう自分の好きなことの話をする時のこいつってよく喋る。そして、決まって喋り過ぎたと勝手に反省するのだ。そういうの、別に聞いてるのは嫌いじゃないからいいけど。

「……過敏になってるくらいが丁度いいと思うけどな。こういうのは」
「そ、そうですかね……?」

 花が咲く時期とか色味がどうとか思っている俺も、完全にあいつの花屋で培われてしまった知識が暴走しているから人のことは言えないだろうが、その知識をひけらかすまでに至らないというのが、少々不思議だ。

「あの……その、また図書館に行ったら、神崎さんに会えたりしますかね……?」
「……別に、図書館じゃなくても会えはするだろ」
「そ、そうですね……そうですよねっ」

 なにか、自分の中で納得させるかのように同じ言葉を口にする。その様子を見たからなのか、それとも最初からそんなことを思っていたのかは分からない。俺は、雅間のことを見ることをせず口を動かしていた。

「……今度」
「え……?」
「クチナシの花が咲いた時、また教えてくれ……」

 沈黙の間に流れる風が、どうしてか心地よかった。

「あ……はいっ」

 どうしてかいつにも増して嬉しそうな雅間の様子。それが、今でも酷く脳裏に焼き付いている。でも、それは当たり前なのかも知れない。だってこれ以降俺は、雅間の家に行くことも話すこともなかったのだから。

 ――とあるニュースが僅か三十秒ほどテレビに流れていったのは、この時からはおおよそ4日ほど経った朝の七時半頃のことだった。
 どこかの図書館付近で、大きな交通事故があったらしい。トラックが横転した様子が映され、トラックを運転していた人物の名前と死亡したという情報。それに巻き込まれたひとりの女子高生の名前が映し出された。名前は確か、なんだっただろう? 普段なら思い出そうと思うことなんてないのだが、この時はどうしても引っかかって仕方がなかった。いや、この際だから正確に俺の意思を確立させておかなければならない。

 雅間 梨絵という某人のことを、思い出したくなんてことはなかったのだ。

 これが、俺と雅間が出会ってから約一年間の間に起きた出来事だ。特別何か大きな出来事があったという訳でもなんでもない。図書館で出会い、自然と一緒に帰る時間が増え、自然と図書館でも隣同士で座るようになった。なんてことをして、そのまま時が過ぎていった。その道中に雅間の家に行くことになって、そしてあの事故が起きた。ただそれだけのことだ。それこそ、単に知り合いだったという解釈の方がしっくり来るかも知れない。
 俺が雅間の事故を知ったのが、学校に行く前にどこかのテレビ番組で報じられたニュースだった。聞き覚えのある名前に知っている場所。それを見た時の俺は、きっと時間が止まったかのようにテレビを見つめていたと思う。あくまでも憶測に過ぎないが。
 当然雅間の両親との面識はなかったし、かつ連絡先なんてものは交換していなかったから、特別葬儀に参加するとかそういうことはしなかったのをよく覚えている。宇栄原にはそのことに関してわりと問い詰められた。本当に行かなくていいのかと、何度も言われた。でも、それでも俺は行くことをしなかった。そのせいもあって、その時の俺と宇栄原を取り巻いていた空気は本当に悪かった。よくあの空気のまま関係が終わらなかったなと、その点だけいうなら感心する。まあある意味では腐れ縁だし、ある意味ではお互い馬鹿なんだと思う。
 決してタブーという訳ではなかったけど、雅間の話はそれ以降することがなかった。というよりも、もう存在しないからする必要がなくなったのだ。

 あの場所で、もう一度雅間の姿を見るまでは。


   ◇


 今日は、俺と宇栄原しかその場にいない。別にだからどうとかいう訳ではないが、いつもより静かに感じるそれは新鮮だった。それは恐らく、今までの人数が当たり前になっていたということなのだろう。ただそれだけのこと話だ。

「拓真さあ」

 ひとり、いつものように話しかけてくる人物は、相変わらず本に視線を落としたまま俺の名前を呼んだ。

「……なに」
「ここ最近図書館行った?」

 突然発せられたその図書館という単語に、俺は一瞬戸惑った。

「……なんで、んなこと聞くんだよ」
「いや、単に気になっただけ」

 今どうして更そんなこと聞くのかと疑問が募った。肯定も否定もしない俺をどう思ったのかは知らないが、宇栄原はそのまま話を続けた。

「別に行くのはいいんだけどね、行くのは」
「なんだよそれ……」

 宇栄原はこの言葉の続きを言うことはなかった。一体どういう意図なのかはある程度予想はつく。だから俺も、それ以上のことは口にしない。

「ねえ拓真」
「……なに」
「もし、もしもの話だけど……例えば幽霊以上の何かに出会ったとしても、おれは何もしちゃ駄目なの?」
「……どういう意味だよ」
「そのまんま。確認しておこうかと思っただけ」

 しかし、この質問の意図だけはよく分からなかった。

「状況にもよるだろ」
「状況、ねぇ」

 納得したのかしてないのか、思案をしているのであろう沈黙が流れた。

「……変なことはすんなよ」
「それは状況次第でしょ」

 撤回しないでよね。そう軽口を叩く宇栄原はいつものそれだったか、やはり少しいつもと違う。手に持っていた本を、宇栄原はそっとテーブルに置く。窓から落ちた光によってテーブルが赤に染まりかけているのが、俺の視界に入った。

「……静かだね」

 その宇栄原の呟きに、俺は答えることをしなかった。


   ◇


 後日、学校を終えた俺は独りでに帰路を歩いていた。がしかし、家に帰るだけなら通ることのない道を進んでいる。
 茜色に染まる空。いつにも増して主張しているように感じた空の色も今の俺には目に入っていないし、近くを通っているであろう車の音なんて聞こえない。本当に辺りには誰もいないのか、それとも気付かないうちにすれ違っているのかもよく分からないかった。
 図書館へと向かう道を進んだのは、雅間 梨絵らしき人物に再び出会って以降はじめてのことだ。
 今の俺にとって、向かっている先の位置づけは学校から図書館へと続く道ではなく、とあるひとつの事故のあった場所という認識だ。本当ならこれから先一度たりとも足を運びたくはないと思っているのだけれど、その思いと行動がどうしても結びつかない。行かなければならないと思ったわけでもないというのに、どうして家に一直線に歩を進めなかったのだろう?

 いつにも増してひどく静まり返っているように感じる俺を取り巻く空気には、確かにほんの僅かながらに疑問は感じていた。それが一体何を意味するのかというのは、恐らく宇栄原だったらすぐに理解が出来たのかも知れない。でも俺は、それに気付ける力のないごく普通の人間だ。この前宇栄原の言っていたことを受け流したわけでは決してない。いつもの俺だったら、こんなことは決してしない。そう、決してだ。
 一度車が大きなエンジン音を立てて横を通り過ぎたのを皮切りに、ようやく今いる場所が何処なのかというのを意識をした。辿り着いたのは、俺のよく知っている場所。交通事故のあった信号のすぐ側だ。誰もいない道路、信号が移り変わる中、俺は青色のそれをただ眺めていた。そうして、一体どれだけの時間が流れたのかは分からない。きっとそれほど時間は経っていないのだろうけど、とにかく静かな空間の中だったと認識している。
 刹那、上着のポケットから振動が伝わってくる。しかし、それに手をかけるにまで至らなかった。一体何故か?

 ――誰かが、俺の名前を呼んでいたのだ。
 今、俺の目の前には誰もいない。だから後ろを振り向いた。そうだ、俺は確かめたかったのだ。俺を呼んでいたのであろうこの人物は、どうして今もここにいるのかを。今のこの状況だからこそ、『本当に、ここにいたのが雅間だったのか』というのを。
 ゆっくりと、その誰かが近付いてくる。一瞬、それを避けてしまいたくなった自分を必死に押し殺す。それは絶対にしてはならないという直観だった。そしてその行為は、ある意味では正しく、ある意味では間違っていたのだろう。
 何かを言いながら、とある某人が俺の手を取る。でも、一体なにを喋っているのかがよく分からなかった。何も聞こえなかったと言った方が正しいかも知れない。
 俺の手を取ったまま、そいつは青信号の歩道へとゆっくりと足を向けた。今思えば、この時ちゃんと拒めば良かったのだ。そうすれば、少なくともこうなる事態は免れたかも知れない。……いやどうだろうか。俺しかいないこの状況なら、結果は恐らく同じだったに違いない。最も、今も振動をすることを止めない携帯を手にしていれば、話は別だったのかも知れないが。

 手を引かれるがまま、俺の足は動いていた。信号は青だった。だから俺は止まらなかった。右から来ている車にも、さして注意は払わない。だって止まると思っていた。車側の信号は赤なのだから。しかし、この状況がいかに異端的であるということを、この時の俺はすっかりと忘れていたのだ。気付けるはずだったのに、気付いていたはずなのに、されるがままだった。

 ――何かがぶつかるような大きな音が耳元で聞こえたということだけが、これが現実であるということの象徴のようだった。身体に衝撃が走ったのは、車の正面が俺に突進してきた時だ。この状況で、俺の足を止めることが出来たのは右から走ってくる車しかいない。そこから先はあっという間だった。俺を乗り上げてきたのか曳き続けたのか、どうやらさっきまで足を踏みしめていた場所からは大きく離れた場所に居るらしい。べったりとしたものが顔にまとわりついているということと、上手く呼吸が出来ないということ意外はよく分からない。身体を起こすことも、腕を動かすことも到底叶わなかった。
 辛うじて見えている範囲、道路には俺がまき散らした血と思われるものが散乱しているようで地面が普通の色ではなくなっていた。こういう時、意識が朦朧としている時は痛みを感じないとかいうのを聞いたことがあったけど、あれはどうやら本当らしい。
 少しずつ、しかし確実に意識が何処かへと落ちていく中、既によく視えていないその目で俺は必死に俺の手を引いた誰かを探した。すると、歪む景色に同化するように今までは見つけることの出来なかった人物がようやく姿を現した。足先を捉えて、なけなしの力でゆっくりと視線を上へと持っていった。
 何処かで見たことのある制服。何処かで見たことのある姿。それが、明らかに俺を見据えているのが嫌になるほど目に付いてしまった。でも、そいつの顔が霞んでよく見えない。一体どういう顔をして俺のことを眺めているのかも、それがさっき俺の手を引いた人物と本当に同一なのかということすらも、分かる手立てが何処にもない。

 どうしてか、目の前の景色が酷く赤かった。それはこの時間だから起こる夕焼けによるものなのか、それとも俺の目が赤く染まっているからなのか。……なにもかもが、分からないままだ。

いいね!