春休みが始まるよりも前の話。相谷と出会う前のことだったから、多分そのくらいの時だろう。俺はまた図書館に足を運んだ。少し時間が空いてしまったのには特に意味があるわけではない。そもそも週に二回くれば多い方だったし、行くのもわりと面倒だというのもあった。というよりも、一応高校三年生という節目であるお陰でそこまで暇でもないのだ。
今日は、たまたま目についたという理由だけで手に取ったとある本の入っていた棚の近くにあるテーブル席に座っていた。
結果的に本を読む羽目になってしまったが、今日俺が図書館に来た理由は、別に本を読みに来たわけでも借りに来たわけでもなく、かといって勉強をしに来たわけでもない。いや、本当は宿題でもしようかと思ってわざわざここまで来たんだけど、なんていうか、俺が単に馬鹿だったのだ。
よく考えたらというよりも来る前に気付けよと自分でも思うのだが、今日は宿題なんて面倒なものは存在しなかったのだ。それに気づいたのは、図書館について鞄のチャックを開けた瞬間。それまで本当に気付かなかった。何で気付かなかったのか、俺は俺に問いたいくらいだ。このまま何するでもなく帰ってもよかったが、ここまで来ておいて何もしないというのも馬鹿らしい。結果、本を読むしかなくなってしまったのだ。一応受験生という立場なのだからそれに値する勉強でもすればいいものを、俺はそこまで行動に移さなかった。
今日のことは絶対宇栄原には言わないようにしようと心に刻みつつ、本を読み進んでいく。今読んでいるのは、愛に狂わされた話を多く残している、『フェア・ウェル』という今は亡き海外作家のものだ。
この作家の作品は何度か読んだことがある程度で別に特別好きなわけでは無いが、それなりに有名な人物である。ミステリー小説の比率が多いようだが、その中にかなり狂気に似た感情が蔓延している印象だ。男女間に芽生えた愛ではなく、愛憎をまるでそのまま形にしたかのようで、フィクションであるにも関わらず本当に起きた出来事のように鮮明に書かれていてるのがよく分かる。もしかしてこれら全ては作者自身の身に起きたものなのではないか、なんて思ってしまう内容ばかりだ。
この人の作品を全部知ってる訳では当然ないから、そのうち全部読んでみるのもいいかも知れない。
「あ、あのっ……」
すると、とある誰かの小さな声が耳に入った。俺にわりと近いところで誰かが誰かを呼んでいるようだったが、その呼ばれている誰かは気づいていないのか、返事らしきものは聞こえない。一応、声のする方向へチラリと視線を向けた。それがいけなかった。
視界に入ってきたのはひとりの女性。この前床に本をぶちまけていた、とある女子高生だった。
ばっりちと目が合ってしまったところを見るに、恐らく呼んでいたのは俺のことなのだろう。お互いに名前を知らないから、呼ぶにも呼べなかったのではないだろうか。
何かを言いたげにしつつも、視線はあっちこっちに動いている。その様子は、挙動不審と呼ぶのにピッタリだった。それに対し俺はなにか声をかけるべきだったのかも知れないが、それよりも先に声を上げたのは彼女のほうだった。
「こ、この前は、その……ありがとうございました」
「ああ、いや……」
これは多分本を拾ったことに対して言っているのだろうとは思うが、またその話になるとは思わなくて何とも適当な返答をしてしまった。今時、名前も知らない人物にこうやって改めてお礼を言ってくる人も珍しいし、何より別にそこまでのことを俺はしていないと思うのだが、それは人の価値観というものの違いと言うべきなのだろう。
まあこれ以上話を膨らませるような出来事もないし、また図書館で見かけることはあったとしても、これでもう話をすることもないはずだ。なんて思っていたのだが、どうやらそう思っていたのは俺だけのようだ。
「……そ、その本っ」
「え?」
「その人の本、お好きなんですか……?」
「あ、ああ……まあ……」
思わぬ言葉に、またしても気の抜けた返事をしてしまう。そいつの目が捉えていたのは、俺がさっきまで目を通していた小説だった。決して好きという理由で読んでいた訳ではなかったから、どう答えようかと言葉を濁してしまった。こういう話を振られたということは、相手が少なからず興味のあることなのだから嘘でも相手に同調できれば良かったのかもしれない。だけどそれをしてしまっては、例えばこの作者の話になってしまった場合に困るのは紛れもなく自分だ。
「えっ、あ……いや……な、何でもないですっ!」
俺が答えあぐねていると、「失礼しました……っ」と言いながら、声をかける暇もなく風のように去っていってしまった。それをただ見ていることしかできなかったことにどうしてか若干後悔してしまった理由については、よく分からない。
恐らくはたまたま俺を見かけたから、単にお礼を言いに来ただけなんだとは思う。第一声がそうだったのだからそれに関しては間違ってはいないだろう。しかし、そのお礼を言うという行為に付随するとある感情がきっと相手にはあったのだろうということには、到底気付くことは出来ない。
「……何だったんだ?」
そんな言葉を漏らしてしまう程に、俺は鈍感だったのだ。
◇
深く小さな息を吐き、私は逃げるようにしてその場を後にする。その様子は、まるで悪いことをしてしまった時のそれとよく似ていた。人気の少ない角の席は私の心を落ち着かせるのに十分だったけど、そんなことなんてお構いなしとでも言うように呼吸は少し乱れているし、心臓の音が騒がしく聞こえる。
ああ、やってしまった。そんな言葉を吐き出しそうになるけど、今のこの空間にそれは到底似合わない。どうにかして必死に飲み込んだものの、そのせいで私の気持ちは余計に爆発しそうだった。こんなことを思うのは大抵何かを後悔した時だが、今回はそれともうひとつ別の感情があった。
(ほ、本当に話しかけてしまった……)
心臓が破裂しそうなくらいに、という表現がピッタリな今の状況だろう。気を付けなければ何かが口から出てきてしまいそうだし、体の熱が中々抜けてくれない。それ程にわたしは動揺していたし、焦っていた。今日はもう、本を読むとか勉強するとかそういう気持ちには到底なれないだろう。
この前わたしが本を落とした時に拾ってくれた名前の分からない学生に自ら話しかけるという、我ながら大それたことをしてしまったのだからそれは当然というものだ。わたしよりも何処か大人びた人だから、きっと年上なのだろう。それだけのことしか知らないし、名前くらい聞けばよかったかもしれない。しかし、わたしはその人のことを前から知っていた。否、知っているというのは少し語弊があるかも知れない。しかし、あの人が図書館にいる時は心なしかそわそわしてしまっていたのは事実だ。
こういうことを軽々しく言ってしまうのは余り好きではないけれど、一言でいうなら一目惚れと言っても差支えは無いかも知れない。
それが一体いつの出来事なのかは、自分でもよく分からない。前からよく見かけるなとは思っていたけれど、気付いた時には図書館の外で見かければ「今日はいるんだな」なんて思っていたし、中に入ればあの人がいないだろうかと目で探してしまうし、入って来る姿を見ればその姿をじっと眺めてしまっていたりもした。あとこれは余談だけれど、図書館に来るまでの道がどうやら途中まで同じらしいということを知った時は、もしかして自分はストーカーなんじゃないかと気が気じゃなかった。
初めて喋ったあの時。きっとわたしはとても挙動不審だったと思う。例えば、あの時本を拾ってくれた人が小さな子供だったり、優しそうな女の人だったり、背広を着たサラリーマンとかだったら、少し愛想のいい私だけがそこにいたのだろう。だけど、わたしはそうすることが出来なかった。それくらい動揺していたのだ。
手を伸ばせば届きそうな程に近くにいるというのを理解した瞬間から、頭が回らなかった。お世辞にも上手くお礼が言えたとは決して思ってなかったから、次に会った時は死ぬ気で話しかけてみようとその時をずっと待っていたのだ。でもあれ以来、暫くは図書館で見かけることもあの道で見かけることもなかったから、もしかしたら変な女がいると思われたかも知れないと思っていたのだが、そもそもそこまで心配することがおこがましかったのだ。向こうにも予定は当然ある訳だし、そうは言うものの私だって毎日図書館に足を運んでいたかというとそうではない。別に知り合いでもないのに、姿が見えないというだけで寂しいなんて思ってしまっていたのは反省するべきところだろう。
本当はお礼だけ言って終わりにしようと思っていたんだけど、あの人が私の好きな作家さんの作品を読んでいたから、気が付いたら口が勝手に動いてしまっていた。少し食い気味に話しかけてしまったような気もするし、私にとってはよく見たことのある人という認識であっても、あの人からしたらそんなことはなく、どこからどう見てもただの他人だっただろう。せいぜい図書館で本を巻き散らかした人間に過ぎないのだから、その点に関しても後悔の念が留まるところを知らない。
(……でも)
やっぱりというか、改めてとでも言えばいいのだろうか。後悔以上の別の感情が、私を押しつぶそうとしているのがよく分かった。それこそ、あの人と話をするよりも前から私をずっと取り巻いているものだが、再認識してしまったのだ。
少しだけ落ち着きを取り戻した私の周りには、いつもの静寂が蔓延っている。こんなにも静かな図書館に響く、私にしか聞こえることのない自身の鼓動のせいで、思わず口が開いてしまう。
「格好良かったな……」
そんな言葉が、テーブルに置いてあった本に零れていた。
◇
すっかり暗くなってしまった空に意識を向けるとよく見える点々とした星とそれに付随する星座が、冬から春へと既に移り変わったということを示していた。煩わしく感じていた寒さが段々と少なくなってきたというのは分かるが、かと言って陽が落ちるとやはりまだ寒さは残る。しかし、あの頬を掠める冷たい風がもうそろそろ無くなるのかと思うと、どうしてか寂しいなんて感じてしまう。もしかすると俺は冬が好きだったのかも知れないだなんて思ってしまう程だが、別に四季にそこまでの感情を覚えるくらいの思い出はまだ存在しない。
図書館から出て、街灯が夜を照らし始めている中を歩く。すぐ近くの歩行者用の信号は、赤く染まっていた。学校から来た場合はいつもその横断歩道を通るのだが、帰りは遠回りになるため渡らずに左に曲がるのが常だ。なのだけれど、今日は少しだけ様子が違った。
信号待ちをしている誰かがいるというのは分かったが、少ない街灯のせいでそれが一体誰かというのを把握するには多少なりとも時間がかかる。ただ、明らかに図書館で見た制服を着た誰かであるということだけは瞬時に理解が出来た。そうなってくると、自ずと人物は絞られてくる。絞られてくるというか、距離が近づくにつれてそれは見たことのある人物であるという確信に変わっていった。
「あ……」
車の音に混じった俺の足音に気付いたのか、声を上げたのは振り返った某人だった。かと言って特に何を話すでもなく続く沈黙が、通り過ぎる車の音によって尚更際立っていた。車の音がようやく落ち着き始めたのは、信号が変わる時だ。
「あ、あのっ……」
しかし、どうやらその某人は信号の色が変わったということに気付いていないらしい。
「その……えっと……。さ、差し支えなかったら、お名前聞いてもいいですか……?」
「え……」
その問いに、俺はどうしたもんかと思わず考えあぐねてしまいそうだった。別にやましいことがあるわけではないし、教えたくない理由があるわけではないけど、赤の他人にそう簡単に名前を教えていいのだろうかという何処か冷静な自分によるものだった。教える必要も義理もないわけだから、断ることだって出来た。そのはずだ。
「……神崎、拓真」
かと言って、某人の質問に答えないというのは余りにも心象が悪すぎるというものだ。
「神崎さん……」
まるで、大切なものでも口に含んだかのように某人は俺の名前を噛んでいく。
「あっと……わたしは雅間 梨絵です。よ、よろしくお願いします……?」
「……どうも」
「その、えっと……」
続けてなにかを言いたげにしている雅間という人物だが、そこから先の言葉が放たれるのに時間が必要だったらしい。このまま話始めるのを待つべきか、それとも俺が半ば強引に切り上げてここから去るべきか。さてどっちが適切だろう? こういう状況で相手が話しやすくなるように配慮が出来る人間ではないということは、俺が一番よく分かっている。宇栄原だったらそういうことが出来たのかも知れないが、生憎俺はそんなスキルを持ち合わせていない。
「な、何でもないです! 失礼しますっ! ってあ、赤……」
一体いつの間に切り替わったのか、信号の色はすっかりと一周してしまったらしい。街灯に照らされた雅間の表情は明らかに焦っており、おおかた早くここから去りたくて居たたまれないといったところだろう。この如何にも気まずい状況の中、一番最初に動かないといけないのは一体誰か。その答えくらいは、まあ考えなくても分かる。
「……じゃ、また」
「え……?」
この時車が通り過ぎていたら、きっとその音にかき消されてしまうくらいの声量だっただろう。絶対に後ろは振り向かないという強い意志のもと、俺は雅間に背を向けて歩きはじめた。
しかし、これは予想していない展開になってしまった。図書館でよく見かける人物というだけだったのに、お互いに名前を把握してしまう事態になってしまうだなんて思わなかった。それに、別れる時に自身が発した「また」という言葉にどういう意味があったのかもよく分からない。またあいつと会うことになるのか? いや、図書館に行けば何かしらのタイミングで出会ってしまうのだろうが、果たしてそれは本当に歓迎するべきことなのだろうか? ……少し考えてみたものの、その答えを出すことはどうやら相当難題らしい。
だが、こういうのは次に会ってしまった時が一番困るというのは明白だ。
◇
あれから一体どれくらい経った頃だったろうか。相谷と出会う前のことだったから、四月の始業式が始まるよりも前のことだったと思う。その日も、俺は図書館にいた。
先ほどまで視線は手元のノートに向けられていたはずなのに、その目標物は小さな音を立ててテーブルの上で閉じられていく。今日は図書館に真面目に勉強をしに来ていたのだけれど、何ていうかこう、とにかく疲れた。それくらい集中していたということなのかも知れない。しかし集中力が切れてしまった状態で無理やり進めたところで効率は悪くなるだけだし、ここはひとつ席を立つことにした。特に何が入ってるわけでもない鞄の中を漁り、財布を探る。なけなしの金しか入っていないそれと、たまたま持っていたミルクキャンディーを手に持ち席を立った。
本棚で作られた適当な通路を通り俺が向かったのは、自販機とテーブルと椅子だけが置かれているいわゆる休憩スペースだった。一応壁のような何かによって囲まれてはいるけど、外から様子が見えるようになっているため、自然と歩きながらそれらが視界に入っていく。人が多いところになんてそう長居はしたくないというものだが、座れないくらいに人がいるなんていうことはそうあるわけではない。図書館なんてそういうものだ。今日も、幸いに人は余りいないらしかった。……がしかし、ひとつだけ問題があった。見覚えのある某人がそこいたのだ。
相手はどうやらまだ俺には気付いていないようだったから戻ろうかどうしようか迷ったけど、ここまで来て戻るほうがわざとらしくて嫌らしい。しょうがないから、オレはその誰かがいる休憩室のドアを開ける。ガチャリという音が、何かを読んでいるらしかったそいつの顔を上げさせた。
「はっ……」
なにか、見てはいけないものを見てしまった時のように声を上げたのは、俺ではなく俺に視線を向けていたひとりの人物だ。
「あ……こ、こんにちは……」
雅間 梨絵。確かそんな名前だっただろうか? 生憎それくらいの記憶しか持ち合わせていなかったが、知り合いと言うほどでもないからさして気にすることでもないだろう。
「どうも……」
それにしても、俺の口から出てくる言葉はなんて愛想のな欠片もないのだろう。まあそんなことはいつものことではあるが、もう少しどうにかならないものか。しかし、どうにかならないだろうか等と思っているうちはどうせ改善しない。
雅間の近くにある自販機まで寄り、財布から幾らかを手に取り適当に水を選んでボタンを押す。自販機からペットボトルが落ちる音は、ある程度静かな休憩室によく響いていた。水飲んで飴を含んだらすぐに出よう。それが一番最善だ。そう思いながら取り合えず水を口に含む。しかし、ふと視界に入った雅間の持っている本がいけなかった。
いくつかの花の写真が並べられているそれは、どうやら花の育て方の本らしい。その本が視界に入ったせいで、俺に芽生えたのは一種の好奇心だったのだろう。本に熱い視線を寄せる雅間が、一体なんの花についてそんなに熱心に読んでいるのか、単純に気になったのだ。
俺の視界に入ったのは、白い花の写真だった。それを、俺は何処かで見た記憶があった。こういう類のものを見る機会なんてそうそうない。安直に思いつく場所と言えば、宇栄原の家くらいだろう。随分昔の話だが、普段は入荷しない花が入ってきたらしく大慌てだったという話を店先で聴いたことがある。確かその花の名前は――。
「クチナシか……」
「え……?」
「あ、いや……」
驚いた様子で俺のことを見る雅間を見て、我に返る。いや俺は馬鹿か? 口に出すつもりは毛頭なかったのに、思わずその花の名前が漏れてしまった。そのお陰で、ふたりの間に妙な空気が流れはじめていく。一刻も早く何も言わずに今すぐここから離れたい。そんな衝動に思考が追い立てられた。
「か、神崎さんってお花好きなんですか……?」
しかし、それも雅間が言葉を発したことによってそうすることが出来なくなってしまった。
「……別に好きではないけど。知り合いに詳しい人間がいるだけ……」
そうなんですね……と、一応納得はしたようで本に言葉が落ちていく。雅間はそのまま話を続けた。
「私の家、毎年クチナシの花を育てていて……ま、まだ先の話ですけど待ち遠しくて」
「ふーん……」
今時、自分の家でちゃんと育ててるなんて珍しい。関心にも似たそれが、俺に適当な返事をさせた。
クチナシというのは和名で、別名ガーデニアとも呼ばれている。あの甘く香る匂いが特徴的だけど、それに誘われてやって来る虫も多く、控えめに言っても初心者向けの花ではない。毎年育てているというのなら、きっと手馴れているのだろう。
「はっ、いや……すみません……! なんかどうでもいいことを……」
急に我に返った雅間が勝手に反省しはじめた。それはまるで、さっきの俺のようだった。完全に俯いてしまって、俺を視界に入れないようにしているらしい。この場合、俺がさっさと出ていった方が無難だろうか? いやしかし、無言で出ていくのは流石に忍びない。だが、このままここに居るという方がもっと無理だ。
「……これ」
「え?」
何を思ったのか自分でもよく分からないが、俺が差し出したのは持ってきたブツ。飲み物と一緒に食べようか、なんて思って持ってきたミルクキャンディーだ。それを、俺は雅間に差し出していた。当然雅間は驚いていたし、それを取ることはしない。だから、テーブルに置いてあるその本の上に雑に投げた。
「……じゃあ」
それだけ言って、俺は視界から雅間を消した。足早に、かつ出来るだけ何も考えないようにそこから逃げた。果たしてこの時雅間が一体どんな顔をしていたのか、俺には想像もつかない。
◇
その日の帰り、六時を過ぎた頃である。日が落ちかけていることに気付いたのは、集中力が切れた頃だった。
時間も時間だし、しょうがないからいい加減帰る準備でもしようか。テーブルに置かれていた文具のそれらを乱雑に鞄に詰める。閉館が近づいているお陰で、当然辺りは来た時よりも人が減っていた。職員になにか言われるのも面倒だし、早々にその場を後にすることに努めた。
図書館の扉、自動ドアもあるにはあるが、俺は取っ手の付いている方に手をかける。こういう時、後ろに誰かがいないかを一応確認するものだからそんな感じで後ろを少しだけ視界に入れた。
「ん……?」
そうしたら、また見つけてしまった。
「あ……」
呆けた返事をした、雅間の姿を。似たような状況はこれで何回目だろう。正直もう飽き飽きした。俺の手から離れた透明ガラスで出来ている扉が、独りでに元の位置へと戻っていった。それを雅間が慌てて手で押し返し、「はは……」とか言いながら扉を開ける雅間を、一体どういう気持ちで見たらいいのか分からない。
「ま、また会いましたね……」
こういう時、何も言葉に出せない自分の性格に決まって文句を言いたくなるのだ。
「あの、さっきは、その……飴ありがとうございました」
「あ、ああ……」
そういえばすっかり忘れていたが、そんなのを渡したような気がする。そのせいという訳でもないけど、確かに腹が鳴って仕方がなかった。途中までの道のりが同じということもあり、ふたりが手を伸ばしてやっと届くであろう中途半端に空いた距離。それがどうにもいじらしかった。
ほんの僅かに後ろの方にいる雅間は、俺と目が合わないようにしているのか何なのか、少し下を向いているのが分かった。そういえばこいつの制服、確か場所からして電車でも十分はかかる場所なんじゃないだろうか。俺はたまたま近いから気が向けば来てるだけで、別に近くになければわざわざ図書館になんて来ないだろうが、そうまでして図書館に来るほどの理由があるのだろうか?
「……その制服、隣町だろ?」
そんな疑問が、普段はろくに動きもしない俺の口を開かせた。
「え? ああ……そ、そうですね」
「そっからだと、遠いんじゃないのか?」
「あ、でも家からだとそんなに遠くはないんですよ」
「ふうん……」
そういえば、確かに小中学校だったらある程度学校と家との近さが求められるけど、高校だったらその限りではないだろう。聞いた俺が馬鹿だった。
目の前で待ち構えている信号が変わり始めている。俺はここを曲がるのだから、どうせなら青になってそのまま自然とお互いの距離が離れればいい。やっと雅間との行き先が分かれるのが、待ち遠しいとすら思った。いや、別にこいつのことが嫌いとかいう極端な話ではなく、お互いに特に喋るような人間じゃないというのがここ最近のやり取りだけでよく分かったから、正直これ以上話すことも無いというか、時間を持て余してしまうとどうしても早く別れてしまいたくなるのはしょうがないというものだ。
歩きながらの数分、ようやく信号の色が青に変わったのが見えた。軽く十分くらい経っているんじゃないかと思うのだが、そんなことはないのだろう。
「……じゃ、じゃあ、失礼しますっ」
街灯が照らされ始めている中、雅間が足早に去っていく。あの様子を見るに、恐らく雅間も気持ち的には似たような感情を持ち合わせていたんじゃないだろうか?
何も言えないままその後ろ姿をただ眺めているだけの自分が急に恥ずかしくなって、俺も急いでその場を後にした。
今日は、たまたま目についたという理由だけで手に取ったとある本の入っていた棚の近くにあるテーブル席に座っていた。
結果的に本を読む羽目になってしまったが、今日俺が図書館に来た理由は、別に本を読みに来たわけでも借りに来たわけでもなく、かといって勉強をしに来たわけでもない。いや、本当は宿題でもしようかと思ってわざわざここまで来たんだけど、なんていうか、俺が単に馬鹿だったのだ。
よく考えたらというよりも来る前に気付けよと自分でも思うのだが、今日は宿題なんて面倒なものは存在しなかったのだ。それに気づいたのは、図書館について鞄のチャックを開けた瞬間。それまで本当に気付かなかった。何で気付かなかったのか、俺は俺に問いたいくらいだ。このまま何するでもなく帰ってもよかったが、ここまで来ておいて何もしないというのも馬鹿らしい。結果、本を読むしかなくなってしまったのだ。一応受験生という立場なのだからそれに値する勉強でもすればいいものを、俺はそこまで行動に移さなかった。
今日のことは絶対宇栄原には言わないようにしようと心に刻みつつ、本を読み進んでいく。今読んでいるのは、愛に狂わされた話を多く残している、『フェア・ウェル』という今は亡き海外作家のものだ。
この作家の作品は何度か読んだことがある程度で別に特別好きなわけでは無いが、それなりに有名な人物である。ミステリー小説の比率が多いようだが、その中にかなり狂気に似た感情が蔓延している印象だ。男女間に芽生えた愛ではなく、愛憎をまるでそのまま形にしたかのようで、フィクションであるにも関わらず本当に起きた出来事のように鮮明に書かれていてるのがよく分かる。もしかしてこれら全ては作者自身の身に起きたものなのではないか、なんて思ってしまう内容ばかりだ。
この人の作品を全部知ってる訳では当然ないから、そのうち全部読んでみるのもいいかも知れない。
「あ、あのっ……」
すると、とある誰かの小さな声が耳に入った。俺にわりと近いところで誰かが誰かを呼んでいるようだったが、その呼ばれている誰かは気づいていないのか、返事らしきものは聞こえない。一応、声のする方向へチラリと視線を向けた。それがいけなかった。
視界に入ってきたのはひとりの女性。この前床に本をぶちまけていた、とある女子高生だった。
ばっりちと目が合ってしまったところを見るに、恐らく呼んでいたのは俺のことなのだろう。お互いに名前を知らないから、呼ぶにも呼べなかったのではないだろうか。
何かを言いたげにしつつも、視線はあっちこっちに動いている。その様子は、挙動不審と呼ぶのにピッタリだった。それに対し俺はなにか声をかけるべきだったのかも知れないが、それよりも先に声を上げたのは彼女のほうだった。
「こ、この前は、その……ありがとうございました」
「ああ、いや……」
これは多分本を拾ったことに対して言っているのだろうとは思うが、またその話になるとは思わなくて何とも適当な返答をしてしまった。今時、名前も知らない人物にこうやって改めてお礼を言ってくる人も珍しいし、何より別にそこまでのことを俺はしていないと思うのだが、それは人の価値観というものの違いと言うべきなのだろう。
まあこれ以上話を膨らませるような出来事もないし、また図書館で見かけることはあったとしても、これでもう話をすることもないはずだ。なんて思っていたのだが、どうやらそう思っていたのは俺だけのようだ。
「……そ、その本っ」
「え?」
「その人の本、お好きなんですか……?」
「あ、ああ……まあ……」
思わぬ言葉に、またしても気の抜けた返事をしてしまう。そいつの目が捉えていたのは、俺がさっきまで目を通していた小説だった。決して好きという理由で読んでいた訳ではなかったから、どう答えようかと言葉を濁してしまった。こういう話を振られたということは、相手が少なからず興味のあることなのだから嘘でも相手に同調できれば良かったのかもしれない。だけどそれをしてしまっては、例えばこの作者の話になってしまった場合に困るのは紛れもなく自分だ。
「えっ、あ……いや……な、何でもないですっ!」
俺が答えあぐねていると、「失礼しました……っ」と言いながら、声をかける暇もなく風のように去っていってしまった。それをただ見ていることしかできなかったことにどうしてか若干後悔してしまった理由については、よく分からない。
恐らくはたまたま俺を見かけたから、単にお礼を言いに来ただけなんだとは思う。第一声がそうだったのだからそれに関しては間違ってはいないだろう。しかし、そのお礼を言うという行為に付随するとある感情がきっと相手にはあったのだろうということには、到底気付くことは出来ない。
「……何だったんだ?」
そんな言葉を漏らしてしまう程に、俺は鈍感だったのだ。
◇
深く小さな息を吐き、私は逃げるようにしてその場を後にする。その様子は、まるで悪いことをしてしまった時のそれとよく似ていた。人気の少ない角の席は私の心を落ち着かせるのに十分だったけど、そんなことなんてお構いなしとでも言うように呼吸は少し乱れているし、心臓の音が騒がしく聞こえる。
ああ、やってしまった。そんな言葉を吐き出しそうになるけど、今のこの空間にそれは到底似合わない。どうにかして必死に飲み込んだものの、そのせいで私の気持ちは余計に爆発しそうだった。こんなことを思うのは大抵何かを後悔した時だが、今回はそれともうひとつ別の感情があった。
(ほ、本当に話しかけてしまった……)
心臓が破裂しそうなくらいに、という表現がピッタリな今の状況だろう。気を付けなければ何かが口から出てきてしまいそうだし、体の熱が中々抜けてくれない。それ程にわたしは動揺していたし、焦っていた。今日はもう、本を読むとか勉強するとかそういう気持ちには到底なれないだろう。
この前わたしが本を落とした時に拾ってくれた名前の分からない学生に自ら話しかけるという、我ながら大それたことをしてしまったのだからそれは当然というものだ。わたしよりも何処か大人びた人だから、きっと年上なのだろう。それだけのことしか知らないし、名前くらい聞けばよかったかもしれない。しかし、わたしはその人のことを前から知っていた。否、知っているというのは少し語弊があるかも知れない。しかし、あの人が図書館にいる時は心なしかそわそわしてしまっていたのは事実だ。
こういうことを軽々しく言ってしまうのは余り好きではないけれど、一言でいうなら一目惚れと言っても差支えは無いかも知れない。
それが一体いつの出来事なのかは、自分でもよく分からない。前からよく見かけるなとは思っていたけれど、気付いた時には図書館の外で見かければ「今日はいるんだな」なんて思っていたし、中に入ればあの人がいないだろうかと目で探してしまうし、入って来る姿を見ればその姿をじっと眺めてしまっていたりもした。あとこれは余談だけれど、図書館に来るまでの道がどうやら途中まで同じらしいということを知った時は、もしかして自分はストーカーなんじゃないかと気が気じゃなかった。
初めて喋ったあの時。きっとわたしはとても挙動不審だったと思う。例えば、あの時本を拾ってくれた人が小さな子供だったり、優しそうな女の人だったり、背広を着たサラリーマンとかだったら、少し愛想のいい私だけがそこにいたのだろう。だけど、わたしはそうすることが出来なかった。それくらい動揺していたのだ。
手を伸ばせば届きそうな程に近くにいるというのを理解した瞬間から、頭が回らなかった。お世辞にも上手くお礼が言えたとは決して思ってなかったから、次に会った時は死ぬ気で話しかけてみようとその時をずっと待っていたのだ。でもあれ以来、暫くは図書館で見かけることもあの道で見かけることもなかったから、もしかしたら変な女がいると思われたかも知れないと思っていたのだが、そもそもそこまで心配することがおこがましかったのだ。向こうにも予定は当然ある訳だし、そうは言うものの私だって毎日図書館に足を運んでいたかというとそうではない。別に知り合いでもないのに、姿が見えないというだけで寂しいなんて思ってしまっていたのは反省するべきところだろう。
本当はお礼だけ言って終わりにしようと思っていたんだけど、あの人が私の好きな作家さんの作品を読んでいたから、気が付いたら口が勝手に動いてしまっていた。少し食い気味に話しかけてしまったような気もするし、私にとってはよく見たことのある人という認識であっても、あの人からしたらそんなことはなく、どこからどう見てもただの他人だっただろう。せいぜい図書館で本を巻き散らかした人間に過ぎないのだから、その点に関しても後悔の念が留まるところを知らない。
(……でも)
やっぱりというか、改めてとでも言えばいいのだろうか。後悔以上の別の感情が、私を押しつぶそうとしているのがよく分かった。それこそ、あの人と話をするよりも前から私をずっと取り巻いているものだが、再認識してしまったのだ。
少しだけ落ち着きを取り戻した私の周りには、いつもの静寂が蔓延っている。こんなにも静かな図書館に響く、私にしか聞こえることのない自身の鼓動のせいで、思わず口が開いてしまう。
「格好良かったな……」
そんな言葉が、テーブルに置いてあった本に零れていた。
◇
すっかり暗くなってしまった空に意識を向けるとよく見える点々とした星とそれに付随する星座が、冬から春へと既に移り変わったということを示していた。煩わしく感じていた寒さが段々と少なくなってきたというのは分かるが、かと言って陽が落ちるとやはりまだ寒さは残る。しかし、あの頬を掠める冷たい風がもうそろそろ無くなるのかと思うと、どうしてか寂しいなんて感じてしまう。もしかすると俺は冬が好きだったのかも知れないだなんて思ってしまう程だが、別に四季にそこまでの感情を覚えるくらいの思い出はまだ存在しない。
図書館から出て、街灯が夜を照らし始めている中を歩く。すぐ近くの歩行者用の信号は、赤く染まっていた。学校から来た場合はいつもその横断歩道を通るのだが、帰りは遠回りになるため渡らずに左に曲がるのが常だ。なのだけれど、今日は少しだけ様子が違った。
信号待ちをしている誰かがいるというのは分かったが、少ない街灯のせいでそれが一体誰かというのを把握するには多少なりとも時間がかかる。ただ、明らかに図書館で見た制服を着た誰かであるということだけは瞬時に理解が出来た。そうなってくると、自ずと人物は絞られてくる。絞られてくるというか、距離が近づくにつれてそれは見たことのある人物であるという確信に変わっていった。
「あ……」
車の音に混じった俺の足音に気付いたのか、声を上げたのは振り返った某人だった。かと言って特に何を話すでもなく続く沈黙が、通り過ぎる車の音によって尚更際立っていた。車の音がようやく落ち着き始めたのは、信号が変わる時だ。
「あ、あのっ……」
しかし、どうやらその某人は信号の色が変わったということに気付いていないらしい。
「その……えっと……。さ、差し支えなかったら、お名前聞いてもいいですか……?」
「え……」
その問いに、俺はどうしたもんかと思わず考えあぐねてしまいそうだった。別にやましいことがあるわけではないし、教えたくない理由があるわけではないけど、赤の他人にそう簡単に名前を教えていいのだろうかという何処か冷静な自分によるものだった。教える必要も義理もないわけだから、断ることだって出来た。そのはずだ。
「……神崎、拓真」
かと言って、某人の質問に答えないというのは余りにも心象が悪すぎるというものだ。
「神崎さん……」
まるで、大切なものでも口に含んだかのように某人は俺の名前を噛んでいく。
「あっと……わたしは雅間 梨絵です。よ、よろしくお願いします……?」
「……どうも」
「その、えっと……」
続けてなにかを言いたげにしている雅間という人物だが、そこから先の言葉が放たれるのに時間が必要だったらしい。このまま話始めるのを待つべきか、それとも俺が半ば強引に切り上げてここから去るべきか。さてどっちが適切だろう? こういう状況で相手が話しやすくなるように配慮が出来る人間ではないということは、俺が一番よく分かっている。宇栄原だったらそういうことが出来たのかも知れないが、生憎俺はそんなスキルを持ち合わせていない。
「な、何でもないです! 失礼しますっ! ってあ、赤……」
一体いつの間に切り替わったのか、信号の色はすっかりと一周してしまったらしい。街灯に照らされた雅間の表情は明らかに焦っており、おおかた早くここから去りたくて居たたまれないといったところだろう。この如何にも気まずい状況の中、一番最初に動かないといけないのは一体誰か。その答えくらいは、まあ考えなくても分かる。
「……じゃ、また」
「え……?」
この時車が通り過ぎていたら、きっとその音にかき消されてしまうくらいの声量だっただろう。絶対に後ろは振り向かないという強い意志のもと、俺は雅間に背を向けて歩きはじめた。
しかし、これは予想していない展開になってしまった。図書館でよく見かける人物というだけだったのに、お互いに名前を把握してしまう事態になってしまうだなんて思わなかった。それに、別れる時に自身が発した「また」という言葉にどういう意味があったのかもよく分からない。またあいつと会うことになるのか? いや、図書館に行けば何かしらのタイミングで出会ってしまうのだろうが、果たしてそれは本当に歓迎するべきことなのだろうか? ……少し考えてみたものの、その答えを出すことはどうやら相当難題らしい。
だが、こういうのは次に会ってしまった時が一番困るというのは明白だ。
◇
あれから一体どれくらい経った頃だったろうか。相谷と出会う前のことだったから、四月の始業式が始まるよりも前のことだったと思う。その日も、俺は図書館にいた。
先ほどまで視線は手元のノートに向けられていたはずなのに、その目標物は小さな音を立ててテーブルの上で閉じられていく。今日は図書館に真面目に勉強をしに来ていたのだけれど、何ていうかこう、とにかく疲れた。それくらい集中していたということなのかも知れない。しかし集中力が切れてしまった状態で無理やり進めたところで効率は悪くなるだけだし、ここはひとつ席を立つことにした。特に何が入ってるわけでもない鞄の中を漁り、財布を探る。なけなしの金しか入っていないそれと、たまたま持っていたミルクキャンディーを手に持ち席を立った。
本棚で作られた適当な通路を通り俺が向かったのは、自販機とテーブルと椅子だけが置かれているいわゆる休憩スペースだった。一応壁のような何かによって囲まれてはいるけど、外から様子が見えるようになっているため、自然と歩きながらそれらが視界に入っていく。人が多いところになんてそう長居はしたくないというものだが、座れないくらいに人がいるなんていうことはそうあるわけではない。図書館なんてそういうものだ。今日も、幸いに人は余りいないらしかった。……がしかし、ひとつだけ問題があった。見覚えのある某人がそこいたのだ。
相手はどうやらまだ俺には気付いていないようだったから戻ろうかどうしようか迷ったけど、ここまで来て戻るほうがわざとらしくて嫌らしい。しょうがないから、オレはその誰かがいる休憩室のドアを開ける。ガチャリという音が、何かを読んでいるらしかったそいつの顔を上げさせた。
「はっ……」
なにか、見てはいけないものを見てしまった時のように声を上げたのは、俺ではなく俺に視線を向けていたひとりの人物だ。
「あ……こ、こんにちは……」
雅間 梨絵。確かそんな名前だっただろうか? 生憎それくらいの記憶しか持ち合わせていなかったが、知り合いと言うほどでもないからさして気にすることでもないだろう。
「どうも……」
それにしても、俺の口から出てくる言葉はなんて愛想のな欠片もないのだろう。まあそんなことはいつものことではあるが、もう少しどうにかならないものか。しかし、どうにかならないだろうか等と思っているうちはどうせ改善しない。
雅間の近くにある自販機まで寄り、財布から幾らかを手に取り適当に水を選んでボタンを押す。自販機からペットボトルが落ちる音は、ある程度静かな休憩室によく響いていた。水飲んで飴を含んだらすぐに出よう。それが一番最善だ。そう思いながら取り合えず水を口に含む。しかし、ふと視界に入った雅間の持っている本がいけなかった。
いくつかの花の写真が並べられているそれは、どうやら花の育て方の本らしい。その本が視界に入ったせいで、俺に芽生えたのは一種の好奇心だったのだろう。本に熱い視線を寄せる雅間が、一体なんの花についてそんなに熱心に読んでいるのか、単純に気になったのだ。
俺の視界に入ったのは、白い花の写真だった。それを、俺は何処かで見た記憶があった。こういう類のものを見る機会なんてそうそうない。安直に思いつく場所と言えば、宇栄原の家くらいだろう。随分昔の話だが、普段は入荷しない花が入ってきたらしく大慌てだったという話を店先で聴いたことがある。確かその花の名前は――。
「クチナシか……」
「え……?」
「あ、いや……」
驚いた様子で俺のことを見る雅間を見て、我に返る。いや俺は馬鹿か? 口に出すつもりは毛頭なかったのに、思わずその花の名前が漏れてしまった。そのお陰で、ふたりの間に妙な空気が流れはじめていく。一刻も早く何も言わずに今すぐここから離れたい。そんな衝動に思考が追い立てられた。
「か、神崎さんってお花好きなんですか……?」
しかし、それも雅間が言葉を発したことによってそうすることが出来なくなってしまった。
「……別に好きではないけど。知り合いに詳しい人間がいるだけ……」
そうなんですね……と、一応納得はしたようで本に言葉が落ちていく。雅間はそのまま話を続けた。
「私の家、毎年クチナシの花を育てていて……ま、まだ先の話ですけど待ち遠しくて」
「ふーん……」
今時、自分の家でちゃんと育ててるなんて珍しい。関心にも似たそれが、俺に適当な返事をさせた。
クチナシというのは和名で、別名ガーデニアとも呼ばれている。あの甘く香る匂いが特徴的だけど、それに誘われてやって来る虫も多く、控えめに言っても初心者向けの花ではない。毎年育てているというのなら、きっと手馴れているのだろう。
「はっ、いや……すみません……! なんかどうでもいいことを……」
急に我に返った雅間が勝手に反省しはじめた。それはまるで、さっきの俺のようだった。完全に俯いてしまって、俺を視界に入れないようにしているらしい。この場合、俺がさっさと出ていった方が無難だろうか? いやしかし、無言で出ていくのは流石に忍びない。だが、このままここに居るという方がもっと無理だ。
「……これ」
「え?」
何を思ったのか自分でもよく分からないが、俺が差し出したのは持ってきたブツ。飲み物と一緒に食べようか、なんて思って持ってきたミルクキャンディーだ。それを、俺は雅間に差し出していた。当然雅間は驚いていたし、それを取ることはしない。だから、テーブルに置いてあるその本の上に雑に投げた。
「……じゃあ」
それだけ言って、俺は視界から雅間を消した。足早に、かつ出来るだけ何も考えないようにそこから逃げた。果たしてこの時雅間が一体どんな顔をしていたのか、俺には想像もつかない。
◇
その日の帰り、六時を過ぎた頃である。日が落ちかけていることに気付いたのは、集中力が切れた頃だった。
時間も時間だし、しょうがないからいい加減帰る準備でもしようか。テーブルに置かれていた文具のそれらを乱雑に鞄に詰める。閉館が近づいているお陰で、当然辺りは来た時よりも人が減っていた。職員になにか言われるのも面倒だし、早々にその場を後にすることに努めた。
図書館の扉、自動ドアもあるにはあるが、俺は取っ手の付いている方に手をかける。こういう時、後ろに誰かがいないかを一応確認するものだからそんな感じで後ろを少しだけ視界に入れた。
「ん……?」
そうしたら、また見つけてしまった。
「あ……」
呆けた返事をした、雅間の姿を。似たような状況はこれで何回目だろう。正直もう飽き飽きした。俺の手から離れた透明ガラスで出来ている扉が、独りでに元の位置へと戻っていった。それを雅間が慌てて手で押し返し、「はは……」とか言いながら扉を開ける雅間を、一体どういう気持ちで見たらいいのか分からない。
「ま、また会いましたね……」
こういう時、何も言葉に出せない自分の性格に決まって文句を言いたくなるのだ。
「あの、さっきは、その……飴ありがとうございました」
「あ、ああ……」
そういえばすっかり忘れていたが、そんなのを渡したような気がする。そのせいという訳でもないけど、確かに腹が鳴って仕方がなかった。途中までの道のりが同じということもあり、ふたりが手を伸ばしてやっと届くであろう中途半端に空いた距離。それがどうにもいじらしかった。
ほんの僅かに後ろの方にいる雅間は、俺と目が合わないようにしているのか何なのか、少し下を向いているのが分かった。そういえばこいつの制服、確か場所からして電車でも十分はかかる場所なんじゃないだろうか。俺はたまたま近いから気が向けば来てるだけで、別に近くになければわざわざ図書館になんて来ないだろうが、そうまでして図書館に来るほどの理由があるのだろうか?
「……その制服、隣町だろ?」
そんな疑問が、普段はろくに動きもしない俺の口を開かせた。
「え? ああ……そ、そうですね」
「そっからだと、遠いんじゃないのか?」
「あ、でも家からだとそんなに遠くはないんですよ」
「ふうん……」
そういえば、確かに小中学校だったらある程度学校と家との近さが求められるけど、高校だったらその限りではないだろう。聞いた俺が馬鹿だった。
目の前で待ち構えている信号が変わり始めている。俺はここを曲がるのだから、どうせなら青になってそのまま自然とお互いの距離が離れればいい。やっと雅間との行き先が分かれるのが、待ち遠しいとすら思った。いや、別にこいつのことが嫌いとかいう極端な話ではなく、お互いに特に喋るような人間じゃないというのがここ最近のやり取りだけでよく分かったから、正直これ以上話すことも無いというか、時間を持て余してしまうとどうしても早く別れてしまいたくなるのはしょうがないというものだ。
歩きながらの数分、ようやく信号の色が青に変わったのが見えた。軽く十分くらい経っているんじゃないかと思うのだが、そんなことはないのだろう。
「……じゃ、じゃあ、失礼しますっ」
街灯が照らされ始めている中、雅間が足早に去っていく。あの様子を見るに、恐らく雅間も気持ち的には似たような感情を持ち合わせていたんじゃないだろうか?
何も言えないままその後ろ姿をただ眺めているだけの自分が急に恥ずかしくなって、俺も急いでその場を後にした。