雅間という人物を認識したのは、確か1月も半ば。寒さもピークに達しているくらいの、そんな季節だった。
途中までの帰路は、いつものように宇栄原と一緒だった。別に一緒に帰る必要性なんて何処にもないのだが、帰り道が同じでしかも同じ学校に通っているとなると、どうも自然とそうなることが多かったのだ。
「今日は普通に帰るの?」
「……いや、図書館行く」
「また? 相変わらず図書館好きだよねぇ……」
宇栄原が言う好きというのと俺の解釈はまた違う。というか全然違うのだけが、別に話せるような明確な理由がないのも事実だった。まあ、単純に家でなにか作業をするというのがどうにも好きじゃないというだけではある。一般的な家庭であり、決して家族との折り合いが悪いとかそういう訳でもないが、それとこれとは話は別だ。
「図書室と何が違うの?」
「……お前がいないところ」
「うわー、そういうこと言う?」
思わず皮肉めいたことが口から出るが、それはあながち間違いではない。かといって、別に本当に嫌いだとかいう極端な話になるわけでは無いが。
「そういうお前は普通に帰るんだろ?」
「まあね。今姉さんが原稿で死んでるから、おれが代わりに店手伝わないといけなくてさぁ」
面倒だけど、と付け加え更に言葉を続けた。
「……ま、それくらいはやらないとね」
苦笑交じりの言葉だったが、どこか楽しそうにも見えたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。
「じゃ、またー」
簡単な挨拶をかわし、宇栄原は家へ。俺はそのまま図書館へと向かった。
家からだとそこまで遠くはないが、学校からだと少しだけ距離が遠くなる。だからどうという訳ではないが、いつもだった一回家に寄ってから向かうのだけれど、今日は少しだけ違った。別に特に意味があったわけではなくて、本当にただの気まぐれで学校帰りの足でそのまま図書館へと歩を進めた。
……この時はそう思っていたけど、もしかしたら本当は早く図書館に着きたくて仕方がなかっただけなのかも知れない。
いくつかの道を歩み、冷たい風が頬を掠めていくのをマフラーでどうにか阻止しながら信号待ちをしているこの場所。別になんてことないよくある道路なのだが、図書館に行く時には必ず通る場所だ。それだけの意味しか持たないただの通り道であることに変わりはない。
(……今日はいない、か)
辺りを少し見回して、俺の見える範囲にとあるものが入らないということを確認する。
俺が探しているのは一体何なのか? この期に及んで、それがこの辺りを徘徊している猫だったなんて言う訳では毛頭ないが、いっそそっちのほうが単純で良かったのかも知れない。
歩道側の信号が青になったのが視界に入る。車通りがそんなに多くない道路をいつにも増してそわそわしながら歩いていたのは、これから訪れるであろう出来事をどこかで予感していたからだろうか? 否、そんな超能力のような力を俺は持ち合わせていない。恐らく、その日はいつもより寒かったからというだけの話だろう。
◇
図書館の自動ドアが開く。その瞬間から既に静寂は蔓延っていた。集中すれば別に何とも思わなくなるが、来て早々この空気感というのはやっぱり少々落ち着かない。座る場所だって俺が座りたいところが毎回空いているとは限らないし、環境音だけでも気を使ってしまう。そして何より、本を借りに来ている訳ではないからよりそう思ってしまっているのかも知れない。
図書館まで勉強をしにきたといえば聞こえはいいが、わざわざ図書館にまできて、と言われればそれまでだろう。それくらいちゃんとした理由なんてものは俺にはなかった。
当たり前に置いてある無数の本棚には目もくれず、座れる場所を探して歩く。決まった場所があるというわけではないが、大体窓際にあるカウンター席のような場所で空いている席を探すのが常になっている。今日はそんなに人がいないのか、思っていたよりも空席が目立っており、幸運なことに窓際の席はいくつか空いていたようだった。
適当なところに座り、荷物を乱雑に置く。館内に入ってしまえばマフラーは用済みだった。席を確保して早々、鞄からいかにもな勉強道具をいくつか取り出していく。学校から出ている宿題とかいうのは出来るだけ早々に済まして、あとは適当な本でも手に取ってそれとなく読む。それがいつもの過ごし方だ。
正直宿題自体は別にどうってことはなく、集中力が途切れなければ何時間とかからないものばかりだ。大方の場合、本を読んでいる時間のほうが圧倒的に長いだろう。
先にやらなければならない事柄を済ませれば、左手に持っていたペンは手から離れ一時の休憩時間に入る。ずっと座っていたせいもあって、固くなった身体がいい加減悲鳴を上げそうだった。
「はあ……」
何に対するものでもない溜め息が、ノートの上に落ちる。いい加減陽が傾いてきたが、まだ帰るというには少々早い。
余った時間は適当な本でも読んでいこうか。そうして俺は席を立った。別に読みたい本があるわけではないが、暇を潰せれば正直何だっていい。そうして目についた先にあったのは、法律書のある本棚だった。地方自治法や憲法資料集といったものは勿論、税制改正について書かれたものも数多くある。別に法律に興味はないのだが、実はこの辺りは大体読みつくしてしまっている。
だからどうという訳ではないが、父がそれ関連の仕事をしているせいで家にそういった類の本が幾つかあって、たまたま手に取って読んでいたらいつの間にか読破してしまっていたのだ。もちろん一日二日で全てを読み切ったわけでは無く、それなりに時間を要したけれど。
何か他の本、と思い別の本棚へ足を運ぼうとした時だった。なにか、重いものが落ちる音が耳に入った。静かな空間には少し似合わない音と言っていいだろう。
「うわっ……」
女性の声と、ドサリと響く何かが床に落ちる音。それが何を意味するのかは何となく察しがついたが、まだ手に取っていなさそうな本を適当に手に取り、音のする方へと足向ける。いや、単に座っていたのがそっち側だったから向かっただけなのだけれど、自然と音のした方へと身体は向いていた。
「ああ……」
そして案の定、床には何冊かの本がぶちまけられていた。
情けない声が落ちている本へと被さるのが聞こえてくる。別に見て見ぬふりをしても良かったのだけれど、そうすることを俺はしなかった。
何故ならそれは、俺の知っている人物だったからだ。
知っている、というのは少し語弊があったかもしれない。俺は目の前にいる人物が一体どういう存在なのかは知らないし、名前だって知らないのだ。知っていることと言えば、たまに図書館で見かけるくらいだというのと、どうやら通り道が途中まで同じであるということ。そして、隣町の制服を着ているということくらいだ。本当に、なんかよく見かけるなくらいの認識である。この日も当然、そんな感じだった。例えばそう、駅のホームで毎日のように見かける知らない誰かと偶然喋ってしまった時のそれと同じ感覚だろう。
「あ、ありがとうございま……」
本を落とした張本人は、俺を見るや否や驚いたように目を見開いていた。
「あ、えっと……す、すみません。五月蠅くして……」
「いや……」
簡素な言葉だけを残して、俺は早々にその場を去った。特別話すことがあるわけでもないし、何か用があったわけでもない。
俺はただ、今目の前にいる人物が今日は来ているのだろうか、なんて思っていただけ。本当に、ただそれだけだった。
これが、今はいない雅間との出会い。
出会いというよりは、俺と雅間が初めて会話を交わした日。
この時の俺に、それ以外に別の感情があったのかと聞いた場合、「それはない」なんてはっきりと言っていただろう。今だって、恐らくそう答えるはずだ。
……手にした本が一度読んだものだったというのに気付くのは、席に戻ってからだということはまた別の話である。
◇
次の日の放課後。俺と宇栄原と、あと勝手についてきた橋下は、約束もしていないにも関わらず当たり前とでもいったように図書室で雑談をしていた。本来なら雑談をするような場所ではないが、まあ学校の図書室なんてそんなものだろう。図書館と違って人も少ないし、多少の雑談なら許されるというものだ。
「拓真さー、昨日図書館行ったんでしょ?」
「まあな」
「どうだった?」
「……どうだった、って何が?」
「いやだから、前言ってたあのー……よく図書館にいる人? 昨日はいたの? って話」
「え、なんですかその話。オレにも教えてくださいよー」
いや何か……と、宇栄原が橋下に経緯のようなものを勝手に説明し始める。
俺が一体いつ宇栄原にそんな話をしたのかは全く記憶にないが、宇栄原のいうよく図書館にいる人というのは、昨日俺が少しだけ会話らしきものを交わした人物のことだ。
「はー……それってアレなんですか? つまりはそのー、アレ」
「なんだよアレって」
「いやそれはアレですよ。ねえ宇栄原先輩?」
「どうだろうねぇ……。そうだとしたら滅茶苦茶面白いけど」
ふたりして何の話をしているのか、俺には全っ然分からない。というか、よくもまあこれだけのことで話が盛り上がれるなと感心してしまうくらいだ。
「で、その人いたんですか?」
「……まあ、居たと言えば居たけど」
「へぇー」
「いや、聞いといてその反応はないだろ……」
「えーじゃあ、何か面白いことでもあったんですか?」
そこまで言うならと、橋下がわざとらしく頬杖をついた。なんでこうこいつはそういう言い方をするのだろうか? 面白いことだなんて言われては、話すことがなくなってしまうだろ。別にそれを鵜呑みにする気は毛頭ないし、そんなことにいちいち神経を使うなんてことはしない。もう面倒だから、俺はその部分を完全に無視して話を始めた。
「……そいつが床に本ぶちまけてたから」
「うん」
「見て見ぬ振りもなんだろ」
「そうだね」
「……だから、拾った」
大雑把な説明の通り、決して特別なことがあったわけじゃない。というより、どちらかと言えばいつもと殆ど同じ時間を過ごしていただけだ。そんな中に起きたほんの少しだけ違う出来事についても、決してそこまで大事ではない。
「ってことは、話したの?」
「……まあ」
「良かったじゃん。気になってる人と話せたんでしょ?」
「気になってる……」
宇栄原はなんか変な勘違いをしているような気がするが、まあこの際それは気にしないでおこう。いやそれは違う、なんてことを言えばまた面倒なことになるのは目に見えているからだ。
「……というかさあ」
「何だよ」
「いや……なんか……ふふっ」
言い淀む宇栄原の後について回ったのは、謎の頬笑みだった。
「ごめんごめん、想像したら笑いが……」
「……なに想像したらそうなるんだ?」
俺の疑問に宇栄原は何も答えないが、変わりにどうしてか楽しそうにしているのだけはよく分かった。
この時の俺は、宇栄原の言う「上手くいけばいい」というのが一体何を指しているのかが分からなかったが、今なら言い淀んだ理由が何となく分かるし、こいつは完全に俺で遊んでいたというのもよく分かる。
ただ、その言葉の続きが本当は一体なんだったのかなんていうのは今となってはもう聞く気にはならない。
「ちょっと先輩、つられてオレも笑っちゃうから止めて欲しいんですけど」
「いや……こんな面白いこと笑うなっていう方が無理でしょ」
このふたり、俺を差し置いて随分と楽しそうではあるが、こいつらに構うとろくなことがないから出来るだけそれらを耳に入れないようにと視界から外す。
本をめくる音と、たまに聞こえてくる誰かと誰かが話している声が響く空間の中、俺は本を読めるくらいの集中力を完全に無くしていた。代わりと言っては何だけれど、ふと昨日のことを思い出す。その人物が俺を見た時のあの表情。驚いたとともに恥ずかしさから来たのであろう、頬を赤らめていたそれが、どうしてか頭に焼き付いて離れなかった。
途中までの帰路は、いつものように宇栄原と一緒だった。別に一緒に帰る必要性なんて何処にもないのだが、帰り道が同じでしかも同じ学校に通っているとなると、どうも自然とそうなることが多かったのだ。
「今日は普通に帰るの?」
「……いや、図書館行く」
「また? 相変わらず図書館好きだよねぇ……」
宇栄原が言う好きというのと俺の解釈はまた違う。というか全然違うのだけが、別に話せるような明確な理由がないのも事実だった。まあ、単純に家でなにか作業をするというのがどうにも好きじゃないというだけではある。一般的な家庭であり、決して家族との折り合いが悪いとかそういう訳でもないが、それとこれとは話は別だ。
「図書室と何が違うの?」
「……お前がいないところ」
「うわー、そういうこと言う?」
思わず皮肉めいたことが口から出るが、それはあながち間違いではない。かといって、別に本当に嫌いだとかいう極端な話になるわけでは無いが。
「そういうお前は普通に帰るんだろ?」
「まあね。今姉さんが原稿で死んでるから、おれが代わりに店手伝わないといけなくてさぁ」
面倒だけど、と付け加え更に言葉を続けた。
「……ま、それくらいはやらないとね」
苦笑交じりの言葉だったが、どこか楽しそうにも見えたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。
「じゃ、またー」
簡単な挨拶をかわし、宇栄原は家へ。俺はそのまま図書館へと向かった。
家からだとそこまで遠くはないが、学校からだと少しだけ距離が遠くなる。だからどうという訳ではないが、いつもだった一回家に寄ってから向かうのだけれど、今日は少しだけ違った。別に特に意味があったわけではなくて、本当にただの気まぐれで学校帰りの足でそのまま図書館へと歩を進めた。
……この時はそう思っていたけど、もしかしたら本当は早く図書館に着きたくて仕方がなかっただけなのかも知れない。
いくつかの道を歩み、冷たい風が頬を掠めていくのをマフラーでどうにか阻止しながら信号待ちをしているこの場所。別になんてことないよくある道路なのだが、図書館に行く時には必ず通る場所だ。それだけの意味しか持たないただの通り道であることに変わりはない。
(……今日はいない、か)
辺りを少し見回して、俺の見える範囲にとあるものが入らないということを確認する。
俺が探しているのは一体何なのか? この期に及んで、それがこの辺りを徘徊している猫だったなんて言う訳では毛頭ないが、いっそそっちのほうが単純で良かったのかも知れない。
歩道側の信号が青になったのが視界に入る。車通りがそんなに多くない道路をいつにも増してそわそわしながら歩いていたのは、これから訪れるであろう出来事をどこかで予感していたからだろうか? 否、そんな超能力のような力を俺は持ち合わせていない。恐らく、その日はいつもより寒かったからというだけの話だろう。
◇
図書館の自動ドアが開く。その瞬間から既に静寂は蔓延っていた。集中すれば別に何とも思わなくなるが、来て早々この空気感というのはやっぱり少々落ち着かない。座る場所だって俺が座りたいところが毎回空いているとは限らないし、環境音だけでも気を使ってしまう。そして何より、本を借りに来ている訳ではないからよりそう思ってしまっているのかも知れない。
図書館まで勉強をしにきたといえば聞こえはいいが、わざわざ図書館にまできて、と言われればそれまでだろう。それくらいちゃんとした理由なんてものは俺にはなかった。
当たり前に置いてある無数の本棚には目もくれず、座れる場所を探して歩く。決まった場所があるというわけではないが、大体窓際にあるカウンター席のような場所で空いている席を探すのが常になっている。今日はそんなに人がいないのか、思っていたよりも空席が目立っており、幸運なことに窓際の席はいくつか空いていたようだった。
適当なところに座り、荷物を乱雑に置く。館内に入ってしまえばマフラーは用済みだった。席を確保して早々、鞄からいかにもな勉強道具をいくつか取り出していく。学校から出ている宿題とかいうのは出来るだけ早々に済まして、あとは適当な本でも手に取ってそれとなく読む。それがいつもの過ごし方だ。
正直宿題自体は別にどうってことはなく、集中力が途切れなければ何時間とかからないものばかりだ。大方の場合、本を読んでいる時間のほうが圧倒的に長いだろう。
先にやらなければならない事柄を済ませれば、左手に持っていたペンは手から離れ一時の休憩時間に入る。ずっと座っていたせいもあって、固くなった身体がいい加減悲鳴を上げそうだった。
「はあ……」
何に対するものでもない溜め息が、ノートの上に落ちる。いい加減陽が傾いてきたが、まだ帰るというには少々早い。
余った時間は適当な本でも読んでいこうか。そうして俺は席を立った。別に読みたい本があるわけではないが、暇を潰せれば正直何だっていい。そうして目についた先にあったのは、法律書のある本棚だった。地方自治法や憲法資料集といったものは勿論、税制改正について書かれたものも数多くある。別に法律に興味はないのだが、実はこの辺りは大体読みつくしてしまっている。
だからどうという訳ではないが、父がそれ関連の仕事をしているせいで家にそういった類の本が幾つかあって、たまたま手に取って読んでいたらいつの間にか読破してしまっていたのだ。もちろん一日二日で全てを読み切ったわけでは無く、それなりに時間を要したけれど。
何か他の本、と思い別の本棚へ足を運ぼうとした時だった。なにか、重いものが落ちる音が耳に入った。静かな空間には少し似合わない音と言っていいだろう。
「うわっ……」
女性の声と、ドサリと響く何かが床に落ちる音。それが何を意味するのかは何となく察しがついたが、まだ手に取っていなさそうな本を適当に手に取り、音のする方へと足向ける。いや、単に座っていたのがそっち側だったから向かっただけなのだけれど、自然と音のした方へと身体は向いていた。
「ああ……」
そして案の定、床には何冊かの本がぶちまけられていた。
情けない声が落ちている本へと被さるのが聞こえてくる。別に見て見ぬふりをしても良かったのだけれど、そうすることを俺はしなかった。
何故ならそれは、俺の知っている人物だったからだ。
知っている、というのは少し語弊があったかもしれない。俺は目の前にいる人物が一体どういう存在なのかは知らないし、名前だって知らないのだ。知っていることと言えば、たまに図書館で見かけるくらいだというのと、どうやら通り道が途中まで同じであるということ。そして、隣町の制服を着ているということくらいだ。本当に、なんかよく見かけるなくらいの認識である。この日も当然、そんな感じだった。例えばそう、駅のホームで毎日のように見かける知らない誰かと偶然喋ってしまった時のそれと同じ感覚だろう。
「あ、ありがとうございま……」
本を落とした張本人は、俺を見るや否や驚いたように目を見開いていた。
「あ、えっと……す、すみません。五月蠅くして……」
「いや……」
簡素な言葉だけを残して、俺は早々にその場を去った。特別話すことがあるわけでもないし、何か用があったわけでもない。
俺はただ、今目の前にいる人物が今日は来ているのだろうか、なんて思っていただけ。本当に、ただそれだけだった。
これが、今はいない雅間との出会い。
出会いというよりは、俺と雅間が初めて会話を交わした日。
この時の俺に、それ以外に別の感情があったのかと聞いた場合、「それはない」なんてはっきりと言っていただろう。今だって、恐らくそう答えるはずだ。
……手にした本が一度読んだものだったというのに気付くのは、席に戻ってからだということはまた別の話である。
◇
次の日の放課後。俺と宇栄原と、あと勝手についてきた橋下は、約束もしていないにも関わらず当たり前とでもいったように図書室で雑談をしていた。本来なら雑談をするような場所ではないが、まあ学校の図書室なんてそんなものだろう。図書館と違って人も少ないし、多少の雑談なら許されるというものだ。
「拓真さー、昨日図書館行ったんでしょ?」
「まあな」
「どうだった?」
「……どうだった、って何が?」
「いやだから、前言ってたあのー……よく図書館にいる人? 昨日はいたの? って話」
「え、なんですかその話。オレにも教えてくださいよー」
いや何か……と、宇栄原が橋下に経緯のようなものを勝手に説明し始める。
俺が一体いつ宇栄原にそんな話をしたのかは全く記憶にないが、宇栄原のいうよく図書館にいる人というのは、昨日俺が少しだけ会話らしきものを交わした人物のことだ。
「はー……それってアレなんですか? つまりはそのー、アレ」
「なんだよアレって」
「いやそれはアレですよ。ねえ宇栄原先輩?」
「どうだろうねぇ……。そうだとしたら滅茶苦茶面白いけど」
ふたりして何の話をしているのか、俺には全っ然分からない。というか、よくもまあこれだけのことで話が盛り上がれるなと感心してしまうくらいだ。
「で、その人いたんですか?」
「……まあ、居たと言えば居たけど」
「へぇー」
「いや、聞いといてその反応はないだろ……」
「えーじゃあ、何か面白いことでもあったんですか?」
そこまで言うならと、橋下がわざとらしく頬杖をついた。なんでこうこいつはそういう言い方をするのだろうか? 面白いことだなんて言われては、話すことがなくなってしまうだろ。別にそれを鵜呑みにする気は毛頭ないし、そんなことにいちいち神経を使うなんてことはしない。もう面倒だから、俺はその部分を完全に無視して話を始めた。
「……そいつが床に本ぶちまけてたから」
「うん」
「見て見ぬ振りもなんだろ」
「そうだね」
「……だから、拾った」
大雑把な説明の通り、決して特別なことがあったわけじゃない。というより、どちらかと言えばいつもと殆ど同じ時間を過ごしていただけだ。そんな中に起きたほんの少しだけ違う出来事についても、決してそこまで大事ではない。
「ってことは、話したの?」
「……まあ」
「良かったじゃん。気になってる人と話せたんでしょ?」
「気になってる……」
宇栄原はなんか変な勘違いをしているような気がするが、まあこの際それは気にしないでおこう。いやそれは違う、なんてことを言えばまた面倒なことになるのは目に見えているからだ。
「……というかさあ」
「何だよ」
「いや……なんか……ふふっ」
言い淀む宇栄原の後について回ったのは、謎の頬笑みだった。
「ごめんごめん、想像したら笑いが……」
「……なに想像したらそうなるんだ?」
俺の疑問に宇栄原は何も答えないが、変わりにどうしてか楽しそうにしているのだけはよく分かった。
この時の俺は、宇栄原の言う「上手くいけばいい」というのが一体何を指しているのかが分からなかったが、今なら言い淀んだ理由が何となく分かるし、こいつは完全に俺で遊んでいたというのもよく分かる。
ただ、その言葉の続きが本当は一体なんだったのかなんていうのは今となってはもう聞く気にはならない。
「ちょっと先輩、つられてオレも笑っちゃうから止めて欲しいんですけど」
「いや……こんな面白いこと笑うなっていう方が無理でしょ」
このふたり、俺を差し置いて随分と楽しそうではあるが、こいつらに構うとろくなことがないから出来るだけそれらを耳に入れないようにと視界から外す。
本をめくる音と、たまに聞こえてくる誰かと誰かが話している声が響く空間の中、俺は本を読めるくらいの集中力を完全に無くしていた。代わりと言っては何だけれど、ふと昨日のことを思い出す。その人物が俺を見た時のあの表情。驚いたとともに恥ずかしさから来たのであろう、頬を赤らめていたそれが、どうしてか頭に焼き付いて離れなかった。