06話:クチナシに視えたもの


2024-08-14 23:47:37
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 自分の世界というものは、いつだって突然終わりを告げる。日常なんていうありふれた存在は、いとも簡単に非日常になり得るものであるということを、一体どれだけの人間が気付いているのだろうか? なんて、偉そうなことを言えるような立場ではない。
 俺だって、所詮はその中のひとりに過ぎないのだ。

 思考を遮るようにして、地面の砂利がこすれる音が耳についた。何処かの誰かが俺の横を通り過ぎていくときに聞こえる喋っている他愛の無い会話文と、そいつらが世話しなく歩いていく度に聞こえてくる足音。その間を抜けるように、俺は足早に街を歩いていた。喧騒というのはいつだって誰かを置いてけぼりにするものだが、今の俺はそんなものに構ってなんかいられない理由があった。
 つかつかと自分の歩く音しか耳に入らない位に忙しなくして向かった先に、複数の花々が見える。そこが俺の目的の場所だ。高校三年に至るまでもう何度もこの道は通っているが、よもやこんな形でこの花屋に来るだなんて誰も予想していなかっただろう。俺だってそうだ。
 いつものように花屋の中を覗くと、既に客人の姿があった。しかし俺は、それら人間には目もくれずとある人物がいるであろうカウンターの奥に向かった。本来なら無断で入るべきではないのだろうが、ちゃんと事前に当人の許可は得ている。しかし、傍からしたら不審人物に違いないだろう。
 ここに来た理由は当然花を買いに来たからなのだが、問題はその花が一体何に使われるのかという部分だ。

「……宇栄原」
「ああやっと来た。準備は出来てるよ」

 俺の顔を見るや否や、挨拶や世間話は全てすっ飛ばして本題に入る。
 いわゆる街の花屋とでも言うのだろうか。決して大きい訳ではないが、宇栄原の家は昔から花屋を営んでいる。昔は花が沢山あるというのが珍しかったというのもあって、店の迷惑だとかそういうのは考えもしないで、花の名前の由来とか花言葉なんかを聞きに入り浸っていたりもした。
 それが今となっては客として花屋を訪れるようになってしまったのだから、時の流れというのは怖い。
 宇栄原が俺に手渡してきたのは、小さな花束が入った紙袋だ。夏休みも既に下旬。時期が過ぎてしまっている為わざわざこの花を取り寄せたらしい。俺は別にそこまで頼んでいないのだが、懇意ということで何も言わないでおこうと思う。
 しかし、これを頼んだ日から今日までの間に言いそびれていた礼を、いい加減言わなければならないだろう。

「……悪いな」
「え、なに急に気持ち悪……。というか、お金貰ってるんだから当然でしょ」

 俺の言葉を宇栄原が素直に受け取るだなんてことは思っていなかったが、正直気持ち悪いは予想していなかった。いつもなら「なんだその言い草は……」なんて口にしていたかも知れないが、今日に関してはこんなことを言える立場ではないだろう。まあ確かに、そっちからしたら仕事のうちのひとつでしかないのだろうが、俺からしたらそうじゃない。口に出来ただけマシだと思っておくとこにする。

「ほらほら、何でもいいからさっさと行って来なよ」
「あ、ああ……」

 半ば追い出されるような形で、俺は花屋を後にすることになってしまった。まあ、これでも宇栄原は配慮してくれているのだというのはよく分かる。相変わらず何を考えているのかが分かりにくく、おまけに誤解されやすいのか他の同級生と話をしてるところを余り見たことが無いが、それはお前も同じだろと何処からともなく聞こえてきそうだからこれ以上考えるのは止めようと思う。
 帰りにもう一度花屋に寄ってから帰ろうか。しかしまた宇栄原に変な顔をされそうだが、俺の気が済まないのだからしょうがない。
 この足のまま向うのは、この辺りでは一番近いとある図書館だ。正確には図書館ではなく図書館へと行く道に用があるのだが、そこまでの違いは無いだろう。
 特別誰と約束をしているわけでもないのに、少し、ほんの僅かではあるものの、俺の足はいつもより早くなっている。
 ……時間はいつも、有限なのだ。


   ◇


 この歳で何を言っているのかとか言われそうだが、時間の流れというのは本当に早い。早くて、早すぎてついていくことさえも困難だ。だからと言って、その時間とやらが誰かを待ってくれるだなんて優しいことはしてくれない。自らの足で進む意外の道なんて存在しないのだ。
 まるで目に見えないそれに追いつこうかとでもいうように、俺の足は勢いに任せていつもより早く動いている。こうしている間も時は流れていっているはずだ。ただ、今から行く場所は恐らくあの時を境に時が止まっている。そんな気がしてならなかった。だから足早になってしまうのも致し方ないというものだろう。

 俺はふと、左手に持っている紙袋の中身を確認した。小さくまとまった花束の主役は、ギリギリこの時期に咲く花だとは呼べないクチナシの花だ。白く眩い花弁は確かに綺麗だが、それに付随するどこか寂しい雰囲気。そして強く香る甘い匂い。少し前まではその匂いも悪くないなどと思ったこともあったけど、今となっては出来るだけ視界に入れたくないとさえ思ってしまうし、その匂いから逃げたくなってしまうくらいには敬遠している。
 だから、今となってはよっぽどの理由がない限り視界に入るなんてことは起こらない。そのよっぽどの理由というのが、今日クチナシの花を買ったそれに当てはまるわけだ。
 信号が点滅しているのが見えて、俺は足を止めた。たどり着いたのは、俺が今日来なければならなかった図書館へ続く道。とある人物と俺が必ず立ち止まる、なんの変哲もない道路だ。チカチカと信号が点滅しているが、横断歩道を渡る気はさらさらない。俺はただただその場に立ち尽くしていた。
 何度も切り替わる信号を前に、俺はやっと体を動かし始める。紙袋から花の束を出す際に発せられた擦れる音が、酷く耳についた。手にとったクチナシの花。俺はそれを、すぐ側にあるガードレールの下へと置いた。その時だった。

「神崎さん……?」

 後ろから、聞き逃すはずのない某人の声が聞こえたのだ。嫌になるくらいに頭の中を反響するのがよく分かる。思考を巡らせるよりも遥か前に、俺は振り向いていた。

「やっぱり神崎さんだ……!」

 その声の主は、雅間 梨絵(みやま りえ)という、俺とは違う制服に身を包んだ人物だ。
 嬉しそうに声が弾んでいる様子は、俺の知っているいつものそれとかなり酷似している。そう、"極めて似ている"というだけに過ぎないのだ。

「……お前、なんでここにいるんだ?」
「なんでって……。図書館に行く道だからに決まってるじゃないですか」

 首を傾げる雅間は、いつものそれと全く同じだった。そんな問いなんてしている場合ではないというのに、どうしてか口は勝手に動き、言う必要のなかったことを溢してしまう。全く暢気なものだ。

「神崎さんこそ、どうしてここに……?」
「……図書館に行く以外で、こんなとこ通らない」
「じゃあ、私と一緒ですね」

 などと言いながら、笑顔を浮かべる彼女が目の前にいる。そうじゃないだろ? と、思わず口にしてしまいそうな程に冷静な自分と、何処かから漂ってくるまるでクチナシの花のように甘美な香りが、俺の思考を酷く鈍くさせる。どうして俺は普通にこいつと話しているのか、どうしてこいつは目の前にいるのか、全く見当がつかなかった。

「それなら、早く図書館に行きませんか? 余り遅くなってもいけないですし」

 疑問符が頭から離れなくなっている隙をつくかのように、雅間が俺の手を取る。氷のように冷たい温度が、一瞬にして冷静さを取り戻させる。気付けば、雅間の手を振りほどいていた。

「神崎、さん……?」

 困惑した雅間の顔。それよりも、俺はきっと酷い顔をしているだろう。おおよそ見当がついていたにも関わらず、俺は困惑した。この時期であるなら当たり前に流れてくる汗。それが、重力に負けてゆっくりと落ちていくのが分かる。

「……お前、どうしてこんなところにいる?」

 少し前の話になるが、とある某人がこの花を好きだという話を俺に零した。

「どうしてって……。さっき言ったじゃないですか。図書館に行くための通り道ですよ……?」

 毎年育ててるんです。といった類の言葉を口にされた。

「そういうことじゃない」

 しかしそれは起きることは無かった。それは何故か?

「……お前、死んだだろ?」

 それは、今から約一ヶ月ほど前。
 恐らくもう少し陽が落ちている時間だろうか? 図書館に行く途中の、まさにこの道で信号待ちをしている時の話。信号を無視してきた車が、雅間 梨絵という女子高生に向かって突っ込んできたのだそうだ。女子高生は、その身体を何メートルと引きずられながら道路と制服を赤く染めていったらしい。病院に運ばれた時には既に意識がなかったそうで、その事故が起きた二日後に女子高生はこの世界から姿を消した。
 つまり何が言いたいのかというと、今俺の目の前にいるこの雅間 梨絵だと名乗る人物は、もうここにはいないはず。居るはずのない人物だ。
 今日は、雅間が世界から消えてから四十九日目に当たる日。交通事故の起きた場所に置かれたクチナシの花が、優しく流れる風によって揺らめいているらしい。匂いが鼻を掠めていくということは、そういうことだ。
 ゆっくりと、風が少しずつ強くなっていくのを感じる。それはまるで、目の前にいる誰かというもうこの世にはいない存在と、俺という生きた存在との間にある決して越えることの出来ない壁のようだった。
 靡く髪の毛が視界を覆ったほんの一瞬。俺の視界が僅かに遮られたその隙に僅かに見えた、とある表情。一体どういうことなのかと考える隙も与えられることもなく、雅間らしい人物は目の前から姿を消した。
 信号が、当たり前のように規則正しく切り替わりはじめている。

「……幽霊、か」

 もうそこにいない何かへの言葉を、ポツリと溢す。
 その声は、不規則に通り過ぎていった車の音によってかき消されていた。


   ◇


 あれから、何かを視てしまったあの時間から、一体どれだけの時が経ったのだろう。
 出来るだけ早く帰るつもりだったのに、いつの間にか日が暮れはじめている。答えのない疑問ばかりが頭の中を埋め尽くしていたからか、気づいた時には家の近所の公園まで足を進めていた。だけど、どうにもすぐに帰る気にはなれなくて暫くの間公園のベンチにただただ座っていたのだ。
 朱に染まり始めている空が、目障りなほど目につく。こうしていたところで考えることなんて同じなのだから、さっさと帰ればいいものを。どうしても、これ以上身体を動かすまでに至らなかった。

 あの雅間は一体なんだったのか?
 目の前にいたのは本当に雅間なのか?
 何かの間違いじゃないのか?
 だとしたら、今も残るあの冷たい手の感触はなんなのか?

 その答えは至極単純であるはずなのに、頭はどうやってもそれを拒否をし続けている。でも、俺の考えていることが正しいからと言って果たして出来ることがどれだけあるというのだろうか。その答えの方が簡単に弾き出されることが、俺は不思議でしょうがなかった。
 いっそ、全部見間違いだったのならどれほど良かっただろう。見間違いである可能性だって十分にあるはずなのに、その考えはすぐに消え去っていく。しかし、どうしても視なかったことにしたがっている自分がそこにはいる。こうやって矛盾を繰り返しながらぐずぐずしている自分が、非常に哀れだ。

 ――地面を歩く音が、何処かから聞こえてくる。

「……拓真?」

 聞き慣れたその声に、容易に耳を傾けるた。どうやら、やっと安堵して身体を動かすことが出来るらしい。

「宇栄原……」
「なにしてんの、こんなところで。あそこにはもう行ったんだよね?」
「ああ……」

 覇気のない適当な返事。わりといつものことではあるけれど、いつものそれとは全く違う。

「……なにか、あったの?」

 それ以上の言葉が俺から出てくることがなかった為か、宇栄原が再び口を開く。その問いに、俺は一体どう答えればいいのかかなり頭を悩ませた。さっきの出来事が、俺がそういう類のものを視れるという特殊な力によるものだったならちゃんと答えることが出来たのかも知れないし、何か適当な嘘だって簡単に思い付いたのかも知れない。でも、生憎そうではなかった。

「……雅間が」
「え……?」
「雅間がいた……」

 だからこうして、至極簡潔な言葉しか述べることが出来ないのだ。普通なら「何を言っているのか?」という顔をされるのが当たり前だが、宇栄原は違った。こいつは顔色一つ変えることをしなかったのだ。

「……なにが原因なのか、拓真は分かってるの?」

 俺が口にした一言だけでどうやら全てを悟ったようだったが、宇栄原が俺の言っていることを信じているのかどうかはその表情から読み取ることは叶わない。しかし、そこは余り気にする必要はないだろう。
 宇栄原が言うように、恐らく俺が一番考えなければならないのはそこだ。どうして雅間が、今も尚あそこに留まっているのか。それが分からなければ俺にはどうすることも出来ないし、原因に心当たりがないからこうして頭を悩ませているわけなのだ。
 そもそもの話、あれが本当に雅間だったのかも疑問が残る。

「あれが本当に雅間だったか、俺には余り自信がない」
「どういうこと……?」

 宇栄原に言ったところで到底分かる術はないだろうが、ああやって軽率に俺の手を握ってくるような奴だったとは思っていない。見当違いの可能性も当然あるけど、端的に言ってそれは考えられなかった。

「……幽霊になったら人格が変わるなんてことあるのか?」
「どうだろう……。そこに留まり過ぎて暴徒化するとか、何か大きな恨みがあるってことならあり得ると思うけど……そういう感じだったの?」
「いや……」

 その問いに、俺はすぐに言葉を返すことが出来なかった。そう聞かれると、暴徒化や大きな恨みといった類というのは少し考え難い。しかし、仮にも知り合いという状況のせいでフィルターがかかっている可能性もある。どちらかと言えば後者かもしれないという思いが邪魔をしたのだ。

「……気になるなら、おれ行ってみようか?」
「それは絶対駄目だ」
「そ、即答しなくてもいいじゃない」

 現状、一番早い解決方法は"幽霊が視える"宇栄原が行って確認するという方法なのだろうが、それは絶対に許さない。少なくとも、俺が関係しているところでそれはやらせない。絶対にだ。

「取りあえず帰らない? ここで考えてたって答え出ないでしょ」

 一応俺に答えを求めてくる辺り、宇栄原自身もそれなりに分かって言っているのだろう。そうじゃなきゃ、今度こそ大喧嘩に発展しかねない。

「というか、拓真って視える人だったの?」
「……お前から借りた本、鞄の中にまだ入ってる」
「ああ、それか……。というか、それ何か月前の話? 読まないなら返してよ」
「読まないなんて言ってないだろ……」

 乱雑にベンチに置かれた俺の荷物を、宇栄原が勝手に手に取った。それに合わせて重い腰を上げた時、冷たくなってきた風に紛れて明らかに嗅いだことのある甘い香りが俺の鼻を掠めたような気がしたが、それが何かを考える余裕なんてものを、今の俺は持ち合わせていなかった。


   ◇


 雅間らしき人物が俺の前に姿を現したあの日以来、俺はあの道に足を運ぶことをしなくなった。図書館に行くこともしなかったし、別にあの道を必ず通らなければ図書館に行けないというわけでもない。何より、もしまたあいつが目の前に現れたらなんてことを考えてしまって、とてもじゃないけど行く気になんてなれなかった。

「……ちょっと拓真、聞いてる?」
「お、おう……」

 そしてそれは、二学期が始まってからも変わっていない。
 学校で俺に話かけてくるやつと言えば、大体相場は決まっている。それに驚いたという訳ではなく、単純に話を聞いていなかったせいで酷く間抜けな声を出してしまったに過ぎなかった。

「……最近ずっとそんなんだけど、大丈夫なの?」

 図書館に向かう道で雅間らしき人物に会ったのは夏休みも半ば。学校が始まって一週間は経ったけど、宇栄原の言う通り俺はずっとどこか上の空だった。

「この前のこと考えてるんだろうけど、あんまり気にしてると別の変なのに目付けられるよ?」

 変なのという部分を頭のおかしい人間と取るか、この世に存在しない何かと取るかで意見が分かれそうなところではあるが、この宇栄原が言うのであれば恐らく後者だろう。

「本当に雅間さんだったんだよね?」
「……多分な」
「ふーん……」

 聞くだけ聞いて適当な返事を返してきやがったなとは思ったが、なんの脈絡もなく返ってきた次の言葉が俺の眉間のしわを深くさせた。

「やっぱりおれ、そこに行ってみようかな」
「……は?」
「別に雅間さんとは面識はないけど、行けばそれなりに分かるだろうし」

 あの時と似たような言葉を口にした宇栄原のせいで、俺の機嫌は途端に悪くなった。確かに幽霊が視えるこいつが行った方が確実だろうし、何より解決も早いだろう。しかし、俺はそれを易々と許すことは出来ない理由があった。

「別に、お前が行く必要はないだろ」
「だって、いつまでもそんな態度されてたらこっちが滅入るよ」
「……だったらほっとけ」
「まーたそうやって言う」

 性格の悪いこいつのことだから、もしかしたら俺のことを揺さぶっているのかも知れない。ただ、それにしたってどうしてそういうことを簡単に言えるのだろう。大昔にあったことを忘れたのかと今ここで口にしたいくらいだが、別に喧嘩がしたいわけじゃない。気が付けば、俺はテーブルに置かれている自分の荷物をさっさとまとめはじめていた。

「あ、帰るの?」
「……お前が五月蝿いからな」
「ちょ、ちょっと待ってよ。だったらおれも……」

 言葉が言い終わる前に、俺は席を立った。このままだと、終わりのない言い争いを永遠としてしまいそうだ。はたから見たら既に喧嘩してるんじゃないかなどと思われていそうだか、決してそうではない。
 威張るようなことでは全くないが、こういうやり取りはわりと日常茶飯事なのだ。最も、ここまでお互いに一歩も譲らない事態というのはそう多くは無いが。


   ◇


「こういう時だけ行動早すぎ……」

 正直なところ、聞き覚えのある声にうんざりした。至極当然といったように宇栄原は俺の隣に着き、そのまま同じ方向へと進みはじめる。

「な、なんだよ……」
「なんだよって言われても、おれの家こっちなんだけど」

 わざわざ追いかけてきたというより、単に本当に帰り道が同じというだけなのだろうが、折角ひとりで出てきたのにこれではまるで意味がない。

「ねえ、本当に雅間さんがそこにいた理由分からないんだよね?」

 しかし、こいつから逃げたところで次の日以降もどうせこの類の話が続く。別に起きてしまったことから逃げられるなんて思ってはいない。俺が嫌なのは、宇栄原からこの類の話を聞かなければいけないということなのだ。そして案の定、俺が聞きたくないことばかり聞く羽目になる。

「それって結構マズいんじゃない? 結構時間も経ってるし……」

 別に誰が悪いわけでもないのに、段々と俺らを取り巻く空気は重くなっていった。

「……だからって、お前が焦る必要はないだろ」
「いや、そういうことじゃないでしょ?」

 恐らくはたった数秒間の、長い沈黙が続く。こうなってしまっては、もうどっちも譲らないということはここにいる誰もが知っていた。

「もういい、やっぱりおれが行って――」

 痺れを切らした宇栄原が俺の視界から外れようかというところ、俺はすぐさま宇栄原の腕をむんずと掴んだ。

「……離してよ」
「俺はいいって言ってんだよ」

 ここまでお互いの主張がぶつかるのは久し振りだ。それくらい、ここに至るまでは平和だったということに等しいだろう。実際、それなりに平和だった。しかしそれが今はどうだ? たったひとつの出来事のお陰で、どうしてここまで意見がぶつからないといけないのだろうか?

「どっちにしろ、やらなきゃいけないのはお前じゃなくて俺だろ」
「……でもそれ、拓真のやることじゃないよ?」

 その言葉を聞いた宇栄原の顔は、明らかに俺を憂虞したものだった。

「だからって、別にお前のやることでもない」

 でも俺は、宇栄原のこういうところが好きじゃない。
 何だかんだで口を出してくるのは、こう見えて宇栄原がどうしようもない心配性だからということは知っている。これが買い被りなどではないことを願うばかりだが、一応忠告をしに来ただけなのだろう。それも分かる。自分が行った方が穏便にかつ早く終わるだろうという主張も理解は出来る。しかし、"いつかに宇栄原が口にしたとある言葉"を知ってしまっている以上、そう簡単に容認することは出来ないのだ。
 沈黙の間を流れる風が、いつもより余計に身体にまとわりついた。

「はあ……もういいよ」

 先に声を出したのは、宇栄原だった。

「その代わり、今日みたいな態度は禁止で」
「……それは無理だ」
「無理じゃないでしょ頑張ってよ」

 それを本気で言ってるのかどうなのか、宇栄原から真面目な気迫は消えた。
 幽霊が視える視えないなどという話は、せいぜいこうしてどちらかの身に何かが起こらないと当然話題には上がらない。俺に限って言うなら、そういう類の話にはならないように注力しているつもりだ。こいつがどうかは知らないが。
 だから正直、こんなことでまた言い争いになるとは思ってなかった。しかもその渦中にいるのが雅間という人物であるというところが余計頂けない。それは宇栄原が折れるわけだ。

「……気が向いたらな」

 適当な言葉を口にしながら、いつだったかに掴んだ宇栄原の腕を解いた。
 何だかんだ言っているが、かといって俺が出来ることというのはさして多くはない。多くは無いどころか、恐らくは出来ることなんて何もないだろう。そういうものだ。せいぜい出来ることがあるとするなら、雅間と過ごしたあの全ての時を一秒も見逃すことなく思い出すということくらいだろう。しかし、例えば雅間があそこに居た原因が俺だとするなら、それは決して無駄なことではない。それに、このチャンスを逃すわけにはいかないだろう。
 今それを行わないとするなら、俺はこの先、あいつのことを素直に思い出すことが出来ないのだから。

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