「書庫室、相谷さん達が入れるのはこっちですね」
案内人さんと一緒に向かったのは、僕の部屋がある側だ。橋下さんのいる126号室と、その隣にある僕の部屋に目もくれずに歩みを進める。どうやら、書庫室は一番奥にあるようだ。
「あ……」
前を歩く案内人さんが一言だけ言葉を漏らす。「またかあ……」という、ため息に似た何かが床に落ちるのを合図に、僕は身体をずらし彼の視線の先に目を向けた。すると、僕にとっては驚きの光景が待ち受けていた。
「そ、掃除士さん……?」
僕は、思わず目を大きく見開きそう口にした。白い植木に隠れていて気付くのが遅れてしまったが、ここに来たときに一度だけ見かけた掃除士さんの姿があった。あった、というか倒れていた。
「ちょっと掃除士さーん? またそんなところで寝てるんですかー?」
倒れているんじゃなくて寝てるのか、という安堵が一瞬頭をよぎったが、それはそれでどうなのだろう。案内人さんが"また"と言ったということは、もしかして日常茶飯事なことなのかも知れない。いや、日常茶飯事だったとしても何というかこう、誰が歩いたかも分からない廊下で寝るというのは余り良くないんじゃないだろうか。
つかつかと案内人さんの靴音が響く。その音は掃除士さんの元へ一直線に向かっていった。「よいしょ……」という声と共に、案内人さんは掃除士さんの近くでしゃがみ込む。それに倣って、僕も掃除士さんの傍にまで足を運んだ。
「眠いのは別に何でも良いんですけど、せめて目につかないところで寝てくれませんかねぇ?」
案内人さんがぺしぺしと彼の頭を叩いたかと思うと、「起きてくださいよー」という声に合わせて掃除士さんの体を思いっきり揺する。なんだかかなり雑な扱いで焦ったが、そうでもしないと起きないということなのだろう。
やっと気付いたとでもいうように、ゆっくりと掃除士さんの瞼が開かれる。ただ、その瞳は半分くらいしか開かれていなかった。
「目、覚めました?」
案内人さんの声が届いたのか、むくりと上半身を起こして目を擦り半分だけ開いた掃除士さんのそれが僕らに向けられる。だけと、それはほんの数秒だけしか持たなかった。目線はすぐに足元へと落ち、今度は上半身を起こしたまま眠りに入ってしまった。
「……ま、放っておきますか。どうせ帰りにまた通るので、その時にでも連れて帰りますかね」
「い、いいんですか?」
「大丈夫ですよ。あの人、いつもああなので」
そう言うと、案内人さんはさっさと腰をあげてその場を後にする。あっさりとしたその態度はいつものことだから、と考えれば正しいものなのかも知れないけど、それなら別に起こす必要は無かったんじゃないだろうか。もしかしたら、ただ単に掃除士さんで遊んでいただけなのかも知れない。
ゆっくりと頭が上下に揺れ、今にもその場に倒れそうな掃除士さんを本当にそのままでいいのだろうかと思いつつも、罪悪感をそこに置いていくようにして、僕は足早に案内人さんの後を追う。すると見えてきたのは、もはや見慣れてしまった白い壁に同化するようにそびえ立つ扉。ただ、他の扉に比べれば装飾が少し多いような印象だ。
「あ、ここですよここ」
扉にかかっているプレートには『Archive room』と書かれているのが分かる。そこがどうやら、案内人さんのいう目的地の書庫室のようだ。色が付いていたらもっと厳かな雰囲気を放っていそうにも感じるそれを、案内人さんが開ける。重そうな音を奏でているのが、この先にいるであろう神崎さんという人物に会うための短い準備時間のようで、僕が持っていた緊張をより一層掻き立ててくる。
扉の先にあるものは、いくつもの大きな本棚とそこに押し込められた沢山の本。そして、本当は誰もいなのではないかと思わせるほどの静寂だ。
しかし、どうしてか僕はこの状態をよく知っているような、そんな気がした。
「神崎さーん」
案内人さんの声が、書庫室内に少し反響する。だけど、それ以外の音が聞こえることはなかった。
「いないのかな……?」
僕の声が聞こえているのかいないのか、案内人さんは更に奥まで進んでいく。当たり前の様に足を運ぶ案内人さんと、恐る恐る後を追いかける僕。まさか蛇が出てくるわけでもないというのに、どうしてこうも緊張してしまうのだろう。
案内人さんを追って向かった先は、まるで本棚自身の意思で避けたのではないかと思うくらいに開けた場所だ。白いカーペットとテーブル。それにソファが並べられていた。
「あー、やっぱり寝てますね」
ソファに寝っ転がっていたのは、とある某人。初めて見た人のはずのに、どうしてかすぐに目的の人物であると認識が出来た。
「神崎さん……」
すとんと降りてきたその単語は、先ほどの時よりもやけに耳馴染みがよかった。ということは、僕は多分この人を知っているのだろう。それは酷く曖昧なものだけれど、確かに僕の中に存在しているようだった。
「寝るんだったら自分の部屋で寝て欲しいんですけどねぇ……。ま、しょうがないんですけど」
しょうがない、というのは一体どういうことなのだろう。やれやれと、案内人さんはさっきと同じように先輩の近くへと近づく。だけど、掃除士さんの時粗雑に揺すぶっていた彼なんて何処にもおらず、肩をポンポンと軽く叩くのみ。いや、僕らがお客だからと言われればそれはそうなのだろうが、何だかそれが別人のように見えてしまった。
「こういう人達って身体痛くならないんですかね? 神崎さん、起きてくださいよ」
そう言って案内人が無理矢理先輩を起こすと、面倒だ、といった様子で身体を起こし始めていく。ゆっくりと、そして静かに僕と視線がぶつかった。すると、さっきまで眠そうにしていた神崎さんの目が、僕をしっかりと見据えていた。少しの沈黙が続くが、最初にそれを破ったのは彼のほうだった。
「……あ?」
機嫌が悪いのかなんなのか。よく分からないけどチラリと僕の方を見た時の眼光と、その声を聞いた僕の口から思わず本音が溢れる。
「こ、こわい……」
「相谷さん、心の声は心の中で言った方がいいんじゃないですかね?」
ああしまった。口に出して言うつもりなんて全く無かったのにやらかしてしまった。神崎先輩は、特に何を言うでもなく僕を見続けている。その様子はさっきの鋭かった眼差しでも、物珍しい存在を見た時のそれでもなかった。
「……お前、本当に相谷か?」
「え……?」
驚きに満ちた瞳と共に紡がれた言葉に、僕は思わず呆けた返事を返してしまっていた。
◇
「あーいたーにくんっ」
本日二回目のその呼び声を、出来るだけ耳に入れないようにしながら僕は帰る準備を進めている。
「図書室行こうよー」
慣れというのは怖いもので、学年なんてお構いなしに入ってくるその様子は、もう日常的なものになっているような気がした。……いや、気のせいなんかではなく、実際ほぼ毎日お昼にやってきては勝手に前の席を占領して、なんかよく分からない話を橋下さんは勝手にしているのだから、気のせいだなんていうのは通用しないだろう。
その内容なんて本当に他愛のないものばかりだから、普段なら全然覚えていないのだけど、今日だけはそうもいかなかった。
「先輩たちが待ってるからさ。ま、別に先輩たちとは約束なんてしてないんだけど」
どうしてかこの日は、帰りに図書室に行くことになってしまっていたのだ。承諾した覚えは無いのだけれど、まあそれはしょうがないというか、この際別にどうでもよかった。
「……なんで腕掴むんですか?」
「いやだって、逃げるでしょ?」
「嫌は嫌ですけど、流石に逃げないですよ」
「まあまあ」
一体何がまあなのか、そこから続く言葉は一向になく、橋下さんにがっちりと左腕を掴まれ半ば強引に連れていかれる形で、図書室に足を運ぶことになった。確かに最初の頃は橋下さんに会いたくなくて色々と試行錯誤したことはあったけど、それが無意味だと分かった今、余計面倒になりそうなことを僕はするつもりはない。
半強制的に引っ張られて連れてこられたのは、職員室がある一階の下駄箱の近くだ。階段を下りてすぐの下駄箱には目もくれず、橋下さんの言う目的の場所に向かった。目の前に立ちふさがる扉を、橋下さんはガラリと音を立てて開ける。当たり前ではあるものの、そこは本棚に敷き詰められた窮屈そうな本で溢れていた。
「あ、いたいた。せーんぱい」
本棚の間を抜けるようにして発せられる橋下さんの声は、受付のすぐそばにあるテーブルで本を読んでいる人と、頬杖をつき暇そうにしている人の元へとたどり着く。僕らのほうに視線を向けたのは、なんだか暇そうにしている人だった。
「……なんだ、橋下君って友達いたんだね?」
「ちょっと先輩、それは流石に酷くないですか?」
先輩……ということは、今橋下さんが話をしているのは上級生だろうか? 確かに何となくそんな感じはするけれど、それなら僕らを見ることすらしない、その先輩と呼ばれた人と同じテーブルで本を読んでいるもうひとりの人も先輩なのだろう。同い年というには大人びて見えるということは、そういうことだ。
「初めましてだよね? おれは宇栄原 渉(うえはら わたる)。まあ、別に宜しくしなくてもいいんだけど、話し相手くらいなら出来るから。良ければいつでも来てね」
「ど、どうも……。相谷です……」
愛想のない言葉自分のが口から落ちるけど、そんなものは目もくれないといった様子で、宇栄原さんは笑顔だった。ただその態度が、橋下さんからすると気にくわなかったらしい。
「……なんか、オレと接するより優しいですね?」
「余り変わらないと思うけど。というか、別におれ優しくないし」
宇栄原さんは優しそうな見た目ではあるけれど、思いのほかはっきりと物事を口にするタイプらしく、いつもずかずかと人のテリトリーを荒らしてくる橋下さんが何となく押されているようだ。
「拓真もさー、シカトも大概にして挨拶くらいしてあげたら?」
宇栄原さんの前に座っていた拓真と呼ばれたとある人は、僕らの存在なんて本当に気付いていなかったとでもいうように、文庫本よりも少し大きな本を手に読み進めていた。宇栄原さんに呼ばれ、ようやくちらりと僕らを視界に入れる。
(こ、こわっ……)
鋭い視線に思わずそんな感想を抱いてしまったのが、初めて神崎 拓真という人物と顔を合わせた瞬間だった。
◇
恐らくこの時、僕の時間だけが止まっていたのだろう。そう思うくらいに瞬きを忘れていたし、呼吸をするのも忘れていた。しかしそれは、周りからしてみたら僅か数秒の出来事で、気付かれるということはなかったはずだ。それくらい一瞬だったのだ。
とある上級生のふたりの出会いを、思い出すということは。
「神崎さんだ……」
どうやら僕の頭はようやく目の前にいる人物を認識したようで、気付けば僕の口からは当人の名字が漏れる。
目の前にいる神崎という人物とはじめて会った時の感想がさっきと全く同じという辺り、どうやら僕の根本的な部分はさして変わっていないらしい。
確かにこの人は近寄りがたい雰囲気ではあるかも知れないが、第一印象というのは大して当てにはならないということを僕は既に知っている。
「……なんつー顔してんだよ」
「だ、だって……」
この人はいつも、優しかった。
自分でも、眉間にしわが寄っているのがよく分かる。それは一体何故かというのはよく分からない。あくまでも直観であるにも関わらず、不確かな真実としてそこに存在しているのが嫌で嫌でたまらなかった。
「もう、本当は会ったらいけないんですよね……?」
そして、それが揺るがない真実であるということをどういう訳か僕は知っていたのだ。
「……さあな」
そうやってはぐらかす神崎さんだって、本当は知っているはずだ。
「……橋下さんも相谷さんと似たようなこと言ってましたけど、本当にそうなんですかね?」
しかし、話に割って入るようにして案内人さんの声が聞こえてくる。
「本当に会ったらいけないっていうなら、私はそもそも案内なんてしませんけど」
不服とでも言いたげに、彼は自分の存在意義を主張した。確かに、会ってはいけないというなら案内人さんが僕をここに連れてくるというのは矛盾しているだろう。
「……あいつ、橋下も本当にここにいるのか?」
更にその声に難色を示したのは、僕ではなく先輩だった。
「何回目ですかその質問? 気になるなら行った方がいいんじゃないですかねぇ」
「……会ったところで今更だろ」
「じゃあ聞きますけど、どうして神崎さんはここに居るんですか?」
その言葉に、神崎さんの思考に遅れが発生した。そう見えた理由は神崎さんの目が途端に丸くなったからだが、すぐに視線を誰もいない何処かに向ける。大方、ばつが悪いといったところだろう。
「別に、好きで来たわけじゃない」
「……この人結構頑固じゃないですか? そろそろ面倒になってきたんですけど」
そう僕に耳打ちしてきた案内人さんだが、その声は多分神崎さんにも聞こえていたんだと思う。少し眉が歪んだのが証拠だ。
僕には分からない会話がいくつか繰り広げられていたが、どうやら神崎さんはキョウさんには会いたくないらしく、逆もまた然りらしい。神崎さんがここに居る理由もよく分からないままだ。どれも、僕が理解するには情報が余りにも足りないものばかりだと言っていいだろう。
だが、もしかしたら僕には到底分かり得ないことなのかも知れない。次に案内人さんの口から発せられた言葉で、それは明白となった。
「……そんなんだから、神崎さんもこんなところに来ちゃうんですよ?」
ため息交じりに、しかし何かを諭すようにそう案内人さんが口にした。
「さっきも言いましたけど、本当に会う必要がないのなら私たちがこんなお節介みたいなことなんてするわけがないと思いませんか?」
その言葉に、神崎さんが再び案内人さんに目を向ける。そのついでなのかどうなのか、僕とも目があったような、そんな気がした。
「……そうかもな」
分かっているのかいないのか、いつにも増して小さく声を落とした。
案内人さんと一緒に向かったのは、僕の部屋がある側だ。橋下さんのいる126号室と、その隣にある僕の部屋に目もくれずに歩みを進める。どうやら、書庫室は一番奥にあるようだ。
「あ……」
前を歩く案内人さんが一言だけ言葉を漏らす。「またかあ……」という、ため息に似た何かが床に落ちるのを合図に、僕は身体をずらし彼の視線の先に目を向けた。すると、僕にとっては驚きの光景が待ち受けていた。
「そ、掃除士さん……?」
僕は、思わず目を大きく見開きそう口にした。白い植木に隠れていて気付くのが遅れてしまったが、ここに来たときに一度だけ見かけた掃除士さんの姿があった。あった、というか倒れていた。
「ちょっと掃除士さーん? またそんなところで寝てるんですかー?」
倒れているんじゃなくて寝てるのか、という安堵が一瞬頭をよぎったが、それはそれでどうなのだろう。案内人さんが"また"と言ったということは、もしかして日常茶飯事なことなのかも知れない。いや、日常茶飯事だったとしても何というかこう、誰が歩いたかも分からない廊下で寝るというのは余り良くないんじゃないだろうか。
つかつかと案内人さんの靴音が響く。その音は掃除士さんの元へ一直線に向かっていった。「よいしょ……」という声と共に、案内人さんは掃除士さんの近くでしゃがみ込む。それに倣って、僕も掃除士さんの傍にまで足を運んだ。
「眠いのは別に何でも良いんですけど、せめて目につかないところで寝てくれませんかねぇ?」
案内人さんがぺしぺしと彼の頭を叩いたかと思うと、「起きてくださいよー」という声に合わせて掃除士さんの体を思いっきり揺する。なんだかかなり雑な扱いで焦ったが、そうでもしないと起きないということなのだろう。
やっと気付いたとでもいうように、ゆっくりと掃除士さんの瞼が開かれる。ただ、その瞳は半分くらいしか開かれていなかった。
「目、覚めました?」
案内人さんの声が届いたのか、むくりと上半身を起こして目を擦り半分だけ開いた掃除士さんのそれが僕らに向けられる。だけと、それはほんの数秒だけしか持たなかった。目線はすぐに足元へと落ち、今度は上半身を起こしたまま眠りに入ってしまった。
「……ま、放っておきますか。どうせ帰りにまた通るので、その時にでも連れて帰りますかね」
「い、いいんですか?」
「大丈夫ですよ。あの人、いつもああなので」
そう言うと、案内人さんはさっさと腰をあげてその場を後にする。あっさりとしたその態度はいつものことだから、と考えれば正しいものなのかも知れないけど、それなら別に起こす必要は無かったんじゃないだろうか。もしかしたら、ただ単に掃除士さんで遊んでいただけなのかも知れない。
ゆっくりと頭が上下に揺れ、今にもその場に倒れそうな掃除士さんを本当にそのままでいいのだろうかと思いつつも、罪悪感をそこに置いていくようにして、僕は足早に案内人さんの後を追う。すると見えてきたのは、もはや見慣れてしまった白い壁に同化するようにそびえ立つ扉。ただ、他の扉に比べれば装飾が少し多いような印象だ。
「あ、ここですよここ」
扉にかかっているプレートには『Archive room』と書かれているのが分かる。そこがどうやら、案内人さんのいう目的地の書庫室のようだ。色が付いていたらもっと厳かな雰囲気を放っていそうにも感じるそれを、案内人さんが開ける。重そうな音を奏でているのが、この先にいるであろう神崎さんという人物に会うための短い準備時間のようで、僕が持っていた緊張をより一層掻き立ててくる。
扉の先にあるものは、いくつもの大きな本棚とそこに押し込められた沢山の本。そして、本当は誰もいなのではないかと思わせるほどの静寂だ。
しかし、どうしてか僕はこの状態をよく知っているような、そんな気がした。
「神崎さーん」
案内人さんの声が、書庫室内に少し反響する。だけど、それ以外の音が聞こえることはなかった。
「いないのかな……?」
僕の声が聞こえているのかいないのか、案内人さんは更に奥まで進んでいく。当たり前の様に足を運ぶ案内人さんと、恐る恐る後を追いかける僕。まさか蛇が出てくるわけでもないというのに、どうしてこうも緊張してしまうのだろう。
案内人さんを追って向かった先は、まるで本棚自身の意思で避けたのではないかと思うくらいに開けた場所だ。白いカーペットとテーブル。それにソファが並べられていた。
「あー、やっぱり寝てますね」
ソファに寝っ転がっていたのは、とある某人。初めて見た人のはずのに、どうしてかすぐに目的の人物であると認識が出来た。
「神崎さん……」
すとんと降りてきたその単語は、先ほどの時よりもやけに耳馴染みがよかった。ということは、僕は多分この人を知っているのだろう。それは酷く曖昧なものだけれど、確かに僕の中に存在しているようだった。
「寝るんだったら自分の部屋で寝て欲しいんですけどねぇ……。ま、しょうがないんですけど」
しょうがない、というのは一体どういうことなのだろう。やれやれと、案内人さんはさっきと同じように先輩の近くへと近づく。だけど、掃除士さんの時粗雑に揺すぶっていた彼なんて何処にもおらず、肩をポンポンと軽く叩くのみ。いや、僕らがお客だからと言われればそれはそうなのだろうが、何だかそれが別人のように見えてしまった。
「こういう人達って身体痛くならないんですかね? 神崎さん、起きてくださいよ」
そう言って案内人が無理矢理先輩を起こすと、面倒だ、といった様子で身体を起こし始めていく。ゆっくりと、そして静かに僕と視線がぶつかった。すると、さっきまで眠そうにしていた神崎さんの目が、僕をしっかりと見据えていた。少しの沈黙が続くが、最初にそれを破ったのは彼のほうだった。
「……あ?」
機嫌が悪いのかなんなのか。よく分からないけどチラリと僕の方を見た時の眼光と、その声を聞いた僕の口から思わず本音が溢れる。
「こ、こわい……」
「相谷さん、心の声は心の中で言った方がいいんじゃないですかね?」
ああしまった。口に出して言うつもりなんて全く無かったのにやらかしてしまった。神崎先輩は、特に何を言うでもなく僕を見続けている。その様子はさっきの鋭かった眼差しでも、物珍しい存在を見た時のそれでもなかった。
「……お前、本当に相谷か?」
「え……?」
驚きに満ちた瞳と共に紡がれた言葉に、僕は思わず呆けた返事を返してしまっていた。
◇
「あーいたーにくんっ」
本日二回目のその呼び声を、出来るだけ耳に入れないようにしながら僕は帰る準備を進めている。
「図書室行こうよー」
慣れというのは怖いもので、学年なんてお構いなしに入ってくるその様子は、もう日常的なものになっているような気がした。……いや、気のせいなんかではなく、実際ほぼ毎日お昼にやってきては勝手に前の席を占領して、なんかよく分からない話を橋下さんは勝手にしているのだから、気のせいだなんていうのは通用しないだろう。
その内容なんて本当に他愛のないものばかりだから、普段なら全然覚えていないのだけど、今日だけはそうもいかなかった。
「先輩たちが待ってるからさ。ま、別に先輩たちとは約束なんてしてないんだけど」
どうしてかこの日は、帰りに図書室に行くことになってしまっていたのだ。承諾した覚えは無いのだけれど、まあそれはしょうがないというか、この際別にどうでもよかった。
「……なんで腕掴むんですか?」
「いやだって、逃げるでしょ?」
「嫌は嫌ですけど、流石に逃げないですよ」
「まあまあ」
一体何がまあなのか、そこから続く言葉は一向になく、橋下さんにがっちりと左腕を掴まれ半ば強引に連れていかれる形で、図書室に足を運ぶことになった。確かに最初の頃は橋下さんに会いたくなくて色々と試行錯誤したことはあったけど、それが無意味だと分かった今、余計面倒になりそうなことを僕はするつもりはない。
半強制的に引っ張られて連れてこられたのは、職員室がある一階の下駄箱の近くだ。階段を下りてすぐの下駄箱には目もくれず、橋下さんの言う目的の場所に向かった。目の前に立ちふさがる扉を、橋下さんはガラリと音を立てて開ける。当たり前ではあるものの、そこは本棚に敷き詰められた窮屈そうな本で溢れていた。
「あ、いたいた。せーんぱい」
本棚の間を抜けるようにして発せられる橋下さんの声は、受付のすぐそばにあるテーブルで本を読んでいる人と、頬杖をつき暇そうにしている人の元へとたどり着く。僕らのほうに視線を向けたのは、なんだか暇そうにしている人だった。
「……なんだ、橋下君って友達いたんだね?」
「ちょっと先輩、それは流石に酷くないですか?」
先輩……ということは、今橋下さんが話をしているのは上級生だろうか? 確かに何となくそんな感じはするけれど、それなら僕らを見ることすらしない、その先輩と呼ばれた人と同じテーブルで本を読んでいるもうひとりの人も先輩なのだろう。同い年というには大人びて見えるということは、そういうことだ。
「初めましてだよね? おれは宇栄原 渉(うえはら わたる)。まあ、別に宜しくしなくてもいいんだけど、話し相手くらいなら出来るから。良ければいつでも来てね」
「ど、どうも……。相谷です……」
愛想のない言葉自分のが口から落ちるけど、そんなものは目もくれないといった様子で、宇栄原さんは笑顔だった。ただその態度が、橋下さんからすると気にくわなかったらしい。
「……なんか、オレと接するより優しいですね?」
「余り変わらないと思うけど。というか、別におれ優しくないし」
宇栄原さんは優しそうな見た目ではあるけれど、思いのほかはっきりと物事を口にするタイプらしく、いつもずかずかと人のテリトリーを荒らしてくる橋下さんが何となく押されているようだ。
「拓真もさー、シカトも大概にして挨拶くらいしてあげたら?」
宇栄原さんの前に座っていた拓真と呼ばれたとある人は、僕らの存在なんて本当に気付いていなかったとでもいうように、文庫本よりも少し大きな本を手に読み進めていた。宇栄原さんに呼ばれ、ようやくちらりと僕らを視界に入れる。
(こ、こわっ……)
鋭い視線に思わずそんな感想を抱いてしまったのが、初めて神崎 拓真という人物と顔を合わせた瞬間だった。
◇
恐らくこの時、僕の時間だけが止まっていたのだろう。そう思うくらいに瞬きを忘れていたし、呼吸をするのも忘れていた。しかしそれは、周りからしてみたら僅か数秒の出来事で、気付かれるということはなかったはずだ。それくらい一瞬だったのだ。
とある上級生のふたりの出会いを、思い出すということは。
「神崎さんだ……」
どうやら僕の頭はようやく目の前にいる人物を認識したようで、気付けば僕の口からは当人の名字が漏れる。
目の前にいる神崎という人物とはじめて会った時の感想がさっきと全く同じという辺り、どうやら僕の根本的な部分はさして変わっていないらしい。
確かにこの人は近寄りがたい雰囲気ではあるかも知れないが、第一印象というのは大して当てにはならないということを僕は既に知っている。
「……なんつー顔してんだよ」
「だ、だって……」
この人はいつも、優しかった。
自分でも、眉間にしわが寄っているのがよく分かる。それは一体何故かというのはよく分からない。あくまでも直観であるにも関わらず、不確かな真実としてそこに存在しているのが嫌で嫌でたまらなかった。
「もう、本当は会ったらいけないんですよね……?」
そして、それが揺るがない真実であるということをどういう訳か僕は知っていたのだ。
「……さあな」
そうやってはぐらかす神崎さんだって、本当は知っているはずだ。
「……橋下さんも相谷さんと似たようなこと言ってましたけど、本当にそうなんですかね?」
しかし、話に割って入るようにして案内人さんの声が聞こえてくる。
「本当に会ったらいけないっていうなら、私はそもそも案内なんてしませんけど」
不服とでも言いたげに、彼は自分の存在意義を主張した。確かに、会ってはいけないというなら案内人さんが僕をここに連れてくるというのは矛盾しているだろう。
「……あいつ、橋下も本当にここにいるのか?」
更にその声に難色を示したのは、僕ではなく先輩だった。
「何回目ですかその質問? 気になるなら行った方がいいんじゃないですかねぇ」
「……会ったところで今更だろ」
「じゃあ聞きますけど、どうして神崎さんはここに居るんですか?」
その言葉に、神崎さんの思考に遅れが発生した。そう見えた理由は神崎さんの目が途端に丸くなったからだが、すぐに視線を誰もいない何処かに向ける。大方、ばつが悪いといったところだろう。
「別に、好きで来たわけじゃない」
「……この人結構頑固じゃないですか? そろそろ面倒になってきたんですけど」
そう僕に耳打ちしてきた案内人さんだが、その声は多分神崎さんにも聞こえていたんだと思う。少し眉が歪んだのが証拠だ。
僕には分からない会話がいくつか繰り広げられていたが、どうやら神崎さんはキョウさんには会いたくないらしく、逆もまた然りらしい。神崎さんがここに居る理由もよく分からないままだ。どれも、僕が理解するには情報が余りにも足りないものばかりだと言っていいだろう。
だが、もしかしたら僕には到底分かり得ないことなのかも知れない。次に案内人さんの口から発せられた言葉で、それは明白となった。
「……そんなんだから、神崎さんもこんなところに来ちゃうんですよ?」
ため息交じりに、しかし何かを諭すようにそう案内人さんが口にした。
「さっきも言いましたけど、本当に会う必要がないのなら私たちがこんなお節介みたいなことなんてするわけがないと思いませんか?」
その言葉に、神崎さんが再び案内人さんに目を向ける。そのついでなのかどうなのか、僕とも目があったような、そんな気がした。
「……そうかもな」
分かっているのかいないのか、いつにも増して小さく声を落とした。