04話:記憶の壁


2024-08-14 22:59:06
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 ――瞼が重い。

「……ん」

 一体いつの間に寝入ってしまったのか、ゆっくりと目を開けると目の前には浅い緑色が広がっていた。中途半端に眠ったせいか、頭に警告音が鳴り響いているかのように脈打つのを感じる。ソファの軋む音と共に体を起こし、まだ寝ぼけた頭を出来るだけ動かそうと思考を巡らせた。
 僕は確か、知らない間に白い空間に飛ばされて、自身のことを支配人と名乗る人物に出会って、そして案内人さんにとある部屋を案内された。それが、今僕がいるこの場所だ。結局、どうしてここに来たのかも分からないままだ。
 辺りを見回せば、案内人さんが言っていた秘色という色が辺り一面を覆っている。どこか非現実みを帯びているようにも感じる無機質な空間は、相変わらずだ。
 いわゆる夢と位置付けるのが正しいか、寝ている間ここで起きたこととは明らかに別の事象について思いを馳せる。夢の中の僕は、学校の屋上に居た。恐らくは自ら屋上へと足を運び、自らの意思で体を空に投げようとしたのだろう。そしてそこに、まるで示し合わせたかのようにしてキョウさんが姿を現した。

「……本当に、たまたまだったのかな」

 恐らくだけど、あの感じからして、キョウさんと出会ったのはあそこがはじめてなのだろう。偶然だったのかどうかまでを疑うわけではないが、余りにもタイミングが良すぎるせいでそう思ってしまう。
 本当に偶然? 授業中にも関わらずたまたま現れた? そんな都合のいいことが、果たしてあるのだろうか?
 これが僕の考えすぎならそれでいいのだけれど、もうひとつ気になることがある。これは、僕の記憶が無いからそう思うのかも知れないけど……。

「僕、結構冷めてたな……」

 今この場所にいる僕の性格と、夢の中での性格。キョウさんはいつものそれと同じようだったけど、僕だけはどうやら違うらしい。冷めているというか、自身のテリトリーを荒らされたくないという空気を放っているようなそんな感じだ。普段からああだったのか、相手がキョウさんだからなのかはまだ分からない。今の僕がおかしいというのも十分に考えられるだろうが、記憶がないという状況でそれは少し詭弁が過ぎるというものだ。
 結局のところ、僕はまだここに来る前のことなんて何も思い出せていないということだろう。そう結論付けるには十分過ぎる不十分な情報量の中、ひとりで考えたところ余計に疲れるだけだ。
 その中でも、恐らく真実として立証が可能なことはいくつかあった。ひとつは、理由はどうあれ僕は屋上から飛び降りようとしていたということ。それをキョウさんが助けてくれたということ。それだけは、恐らくキョウさんに聞けばある程度真実なのかただの夢だったのかの区別はつくはずだ。

「……橋下さん、か」

 恐らくこの空間に来て初めて、そんな単語を口にしただろう。
 零れた言葉に目を向けるように下を向けば、いつの間にか耳から外れていたイヤホンが目に入る。どうやら寝ている間に停止ボタンを押してしまったようで、イヤホンを耳に入れてもさっきまで奏でていたそれらは何も聞こえてこない。どういうわけか、辺りは酷く静寂に溢れているという事実に押しつぶされそうな感覚に陥った。
 そういえば、案内人さんにこの音楽プレイヤーについて聞きに行こうと思ってたけど、そのまま寝てしまったんだった。本来の目的を思い出し、僕はやっと腰をあげる。頭は重いけど、起きたことだし早速行ってみようか。そう思ったけど、ここでまたとある疑問が浮上した。
 聞いたところで、僕は一体どうするのだろう?
 案内人さんに聞いたからといって、分かるだなんて限らない。というより、そんな都合のいいことはきっとあるわけがない。だけど、芽生えてしまった知りたいという感情を僕はどうにも抑えることが出来なかった。……いや、それは少しだけ違うかもしれない。
 本来この状況なら、橋下さんにあった方が合理的かもしれない。きっと思い出せることだって増えるのだろう。だが、あの情報だけしか持っていない今の僕が橋下さんに会うというのは、少しだけ度胸が必要だ。
 今の僕……というのは少し違うかもしれないが、あの人に会う度胸と勇気を今は持ち合わせていない。


   ◇


 自分の居た部屋を出て、案内人さんと一緒に通った一本道を思い出すように通り受付に行く。余りにも静かだったから誰もいないのかと思ったが、どうやらそうでは無かったようだ。ペラリと、何かが擦れる小さな音が耳につく。案内人さんが居るであろうカウンターへ足を進めると、そこには案の定案内人さんの姿があった。どうやら雑誌のようなものを読んでいるようで、僕には気づいていないらしい。話しかけて良いものかと躊躇しながらもそもまま進んでいくと、ようやく僕の気配を感じたのかその瞳が僕へと向けられた。

「……あれ、相谷さんじゃないですか。どうかしました?」
「えっと……」

 キョトンとした顔で僕を見据える案内人さんをみて、ふと思う。そういえば、受付まで来たのはいいけど、何をどこから説明すればいいかとかそういうのを何も考えないで勢いだけで来てしまった。そのことに後悔しつつ、ゆっくりと自分の中にある疑問を噛み砕きはじめた。
 余りにも遅い行動だっただろうが、案内人さんは僕が答えるのを何も言わずに待ってくれている。それが僕の落ち着きを取り戻させるには、十分過ぎるものだっただろう。

「あの、僕のポケットにいつの間にかこれが入ってて……」

 僕がまず提示したものは、知らない間にポケットに入っていた音楽プレイヤーだ。差し出したそれを案内人さんが手に取ると、「ふーん……」と言いながら縦や横に色んな方向へクルクル回しながら確認し始める。それはまるで、はじめて目にしたものを手渡された時のそれだ。

「今ってこんなのあるんですね。……っていうか、これ何ですか?」
「え、えーっと、音楽プレイヤーっていう音楽が聴けるやつで……」

 その質問から察するに、どうやら案内人さんは本当にそれを知らないらしく、音楽プレイヤーに挿してあったイヤホンも「なんか見たことがある気がする」という曖昧なもので、その後数分の間質問攻めにされてしまった。このボタンはなんですか? とか、ぶっくまーくって? とか、画面に表示される曲のジャケット写真にかなり興奮していたりと、とにかく色々と試された。何も知らない子供に教えているみたいで少し面白かったけど、プレイヤーの中に入っている曲のことだけは何も聞かれなかったということだけが不思議だった。単に興味が無かったというだけならそれで良いのだけれど、何か理由があったのだろうか?

「便利な世の中になったんですねぇ……」

 一通り聞いたところでお年寄りみたいな頷きを見せる案内人さんは、手に持っているそれを僕へと渡しながら本題に入る。

「えーっと、何でしたっけ……ああそう。これが知らない間にポケットに入っていたってことで合ってますよね?」
「は、はい……」

「ということはー……」と、案内人さんは座っている椅子を自身の足でくるりと回す。それはどうやら彼が考え事をする時の合図のようで、そこから右へ左へとユラユラ揺れながら、何もない空をひとり眺めはじめた。
 そして彼が出した結論は、とても単純で簡単なものだったと言えるだろう。但し、理解するには少し時間を要するものだった。

「じゃあ、これが相谷さんにとって必要なものだったから、一緒についてきちゃったんですね」
「ついてきた……?」

 それはつまり、僕以外の知らない誰かの物でもなく正真正銘僕のものであって、僕がこれを必要としていたということだろうか? 僕のものであるならいいのだけど、音楽プレイヤーがついてきた、という言い方には少々疑問が残る。

「ここって、基本的に持ちものは淘汰されるので、こういうことは余り起こらないんですけど。そんな中でもそのー……ぷれいやー? があなたの元に来たっていうことは……」

 一呼吸おいて、案内人さんは僕を見据える。

「それは、相谷さんにとって大切なものだったんですよ」

 その優しく光る瞳が、僕にはどうしてか寂しそうに見えた。


   ◇


 この音楽プレイヤーは僕の大切なものだと、案内人さんは口にした。
 手渡されたそれ、きっと数えようとも思えないくらいには見てきたのであろう音楽プレイヤーをまじまじと見つめ、まだ完全ではない記憶の中を辿る。確かに夢の中の僕は屋上で曲を聴いていたようだけれど、これがそんなに大切なモノだったのかというのはまだ不確定だ。
 ここに持ってきてしまう程に大切だったものの記憶さえも、僕は何も覚えていないというのだろうか? それは少し、薄情が過ぎるというものだ。

「……他には?」
「え?」
「いや何となくですけど、そのぷれいやーってやつの他にも、聞きたいことがあってここに来たんじゃないのかなぁって思ったんですけど」

 その言葉の意味がよく分からず、僕は首を傾げる。案内所さんに聞きたいことなんてあっただろうか? 一番聞きたかったのは音楽プレイヤーのことだけで、他には特になにも考えていなかったというのが本音なのだけれど、案内人さんにそう言われてしまうとまだ何かあったんじゃなかっただろうかという気持ちに晒される。そう考えると、確かに金輪際聞くことがなんにもないということではないような、そんな気がした。

「……さっき、橋下 香さんって人に会ったんですけど」

 気付けば、そんな言葉が口から漏れていた。

「あー……確か知り合いでしたよね? 会ってみてどうでした?」

 案内人さんの質問に、僕は考えあぐねてしまった。感想というほどのものは余り持ち合わせていなかったのだ。しいて言うのであれば、少し騒がしくかと言って煩わしいというほどでもない。僕は大して喋っているわけでもないのに、話が勝ってい進んでいく辺りがなんというか……。

「掴みどころがなくて、不思議な人ってところですか?」

 最終的に僕が思ったことを言い当てられてしまい、驚きながらも頷いてしまった。人の気持ちが分かるという訳ではないのだろうけど、それくらい的確だったのだ。

「まあ確かに、一見そういう感じですよね。一見っていうか、素もそこまでの差異はなさそうですけど。その人がどうかしました?」
「どうというか、変な夢を見たというか……」
「ふうん?」

 少し不思議そうに頷きながらも、どういうわけか少し嬉しそうにしているような、そんな風に見えた。
 そこからの時間は、僕が夢で見たことをそのまま案内人さんに伝える時間となった。うまく話せているかはともかく、いま自分の中にある言葉で精一杯口を開き、伝える努力をした。それをまるで何処かで体験したかのように話せたのは、全部夢を通して見た実際に起きたことであるからという裏付けのような気もしたが、そんなことを考える余裕はない。
 どれくらいの時間をかけてその話をしたのかは分からないけど、案内人さんは相槌を打つだけで、話し終わるその瞬間までとにかく僕の話に耳を傾けていた。

「……つまり相谷さんが一番気になっているのは、その夢が本当に現実で起きたことなのかということですかね?」
「う、うん……」

 ちゃんと伝わった自信はなかったけど、どうやらその心配はなかったようだ。

「うーん……困ったなあ」

 続けて「思ったより……」と言葉を濁し、案内人さんは急に考え込んでしまう。何か困らせるようなことを話した自覚はなかったのだが、やっぱり伝わりきれてない部分があったのだろうか? そう思うと急に不安に駆られていくが、案内人さんが次に発した言葉は、僕の想像していたものとは程遠かった。

「それ、私の口からよりも橋下さんに聞いた方がいいと思うんですけどねぇ」

 その言葉は、確かにその通りだった。「何かあったらいつでも来てね」と言ってくれたキョウさんのところに言って聞けば、それで済む話なのかも知れない。
 でもそれよりも、案内人さんは全ての事柄を知っているかのような言いぶりだったのが、気になってしまった。

「案内人さんは、ここに来る前の僕のこと知ってるんですか……?」
「うーん、そういう訳でもないんですけど。ただまあ、今の相谷さんよりは知ってる自信はありますね」
「……前に会ったことあるっていうことじゃないんですよね?」
「そうですね。今の相谷さんにはないハズですよ」
「今の……?」
「あーそうだ。話題に上がらなかったので聞きたいんですけど、神崎 拓真(かんざき たくま)って人とは夢の中で会いました?」
「神崎……?」

 何かをはぐらかされたようなそんな気がするが、突然現れた神崎 拓真という名前が妙にハッキリと僕の耳に入ってきたせいで、完全に意識がそこだけに向けられる。と言っても、聞き覚えがあるようなそうでもないようなという曖昧な感覚でしかないが、この気持ちは橋下さんとここで最初に出会ったときのものとかなり似通っている。今の僕には、その人の記憶が全くと言っていいほど存在していないのに、何か知っているような感覚。それが、僕を酷く不安にさせた。

「……その感じだと、まだみたいですね」
「うん……」
「一応知り合いのはずですし、会いにでも行きます? 多分、書庫室にいると思いますけど」
「え……ここにいるんですか?」
「いますよ。まあ、部屋にはいないでしょうけど」

 その神崎って人がここに来ている? それが不思議で、明らかにおかしくて、ありえないことだというのはすぐに分かる。でも、どうしてそれが分かるのかという部分に関してはよく分からなくて、何とも矛盾していた。唯一確実な疑問が僕の中にあるとするなら、その人に会ったところで一体どうするのだろう? そんな思いだけだ。

「あの……」
「なんでしょう?」
「その、会ってもどうすればいいのか……」
「大丈夫ですよ。だって、橋下さんとは会ったじゃないですか」
「そ、それはキョウさんが勝手に入ってきたから……」

 難色を示す僕を見ても、案内人さんは素知らぬ顔で次の案を提案する。

「あー、じゃあこうしましょう。私たちは、今から本を読むために書庫室に行きます」
「うん……」
「書庫室の扉を開けたら、そこには偶然神崎さんがいた。……これでどうでしょう? まあ、無理にとは言いませんけどね」

 正直なところ、余り行きたくはない。だけど、行かないという選択肢を選んでしまって本当にいいのだろうか? そんなことを思ってしまうということは、やっぱり僕とその神崎さんという人は、あったことがあるのかも知れない。そうだとするなら、僕の取らなければならない行動というのは自ずと決まってくるというものだ。

「……案内人さんも、一緒に来てくれるんですか?」
「まあ、言い出したのは私ですから。それに、何かあって支配人に怒られるのも嫌ですし」

 どうやら案内人さんの行動理由は、単に支配人さんに怒られるのが嫌だからという部分が大きいらしい。でも、それでもひとりで行くよりは全然ましだ。
 意を決してはみたものの、やっぱり僕の中にある不安というのはそう簡単に尽きるものなんかではなかった。

「……怖い人だったらどうしよう」
「はは、ああいう人は雰囲気だけですから。大丈夫ですよ」
「雰囲気……」

 つまりは、少なくとも雰囲気は怖いのだろうか。そんなことを思っていると、案内人さんは立ち上がる。「こっちですよ」なんて言う姿は、その案内人という名前にとてもよく似合っている。それが少し羨ましいと思いながら、僕は案内人さんの後ろをついて歩きはじめた。

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