03話:ヒミツが好きだと嘯いた


2024-08-14 22:58:09
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「……嘘つくなら、もう少しマシな嘘ついたら?」

 掴まれた反動なのか、イヤホンが片方の耳から知らない間に外れていた。どうしてか何処か混沌としていた意識は、目の前にいる彼と風の音によって、少し、また少しとクリアになっていくのを感じる。
 一瞬、目の前にいるその人の眉間にしわを寄せたように見えたけど、どうしてかそれが、哀れみに似た何かに感じて、僕はただただ見つめることしか出来ずにいた。ああなんか、これはきっと面倒な人に見つかってしまった気がする。言葉にはしないけど、そう思ってしまう自分がいた。どうしてはじめて出会ったはずの人に、そんな複雑な顔をされなければならないのだろうか。僕は不思議でしょうがなかった。

「とにかく、そこじゃ危ないから。こっちに戻ってきてくれるよね?」

 その言葉に酷い違和感を覚えて僕は顔をしかめたが、その思考は頬にかかる風によって払拭される。いつにも増して冷静な思考が、どこか夢見心地だった気分を現実へと連れ戻す。さて、ここからどうやって言い訳をしようか。そんなことばかりを考えていた。だが、靴を脱いで柵を乗り越えているこの状況では、挽回することはかなり難しい。
 もう相手にするのも面倒だから、どうか何もかもが間違っていればいいのに。そう願いながら、少しずつ、ゆっくりと視線を下へとずらす。そして、たどり着いた結論はこうだ。

「……それで戻る義理はないですね」

 この期に及んで、僕は弁解を一切しない。
 目の前に広がっている、あと一歩足を動かせば落ちると誰でも分かる虚空。本来なら昼休みが終わって、いつものように惰性的に授業を受けて、いつものように学校が終わる。そのはずだっただろう。

「でも、誰かの前でとか冗談じゃないので今日は止めます」

 この人がいなかったら、きっと今ごろ地面の上で血にまみれていて、それに気付くであろう誰かが救急車を呼び、病院にでも運ばれていたのかも知れない。打ち所が悪ければ、そのまま僕はこの世からいなくなっていた。なんてこともあっただろう。実際、そうなることを確かに望んでいた。それが正しい選択だと思ったのだ。
 日常がこんな風に非日常へと切り替わるのはもう慣れたものだけれど、他人を巻き込んでどう、ということ出来ればやりたくない。そっちのほうが断然厄介だ。
 そうなると、次に取らなければならない行動はひとつしかない。柵を乗り越えて、本来いるべき屋上に戻るという行為だ。そうであるのだけれど、少々問題がある。取りあえずは、それをなんとか目の前にいる名前も知らない人に伝えなければいけないだろう。
 長い沈黙を破って出てきた単語を、僕は出来るだけ簡潔に口にした。

「……こういうのって、戻る方が大変だったりするんですよね」
「え……?」

 そう告げると、目の前の人は明らかにキョトンとした表情を見せる。それはそうだろう。この人からしたから、自分から柵を乗り越えたくせに何を言っているんだ、と思っているに違いない。だけど、この人はそんなことを思っているような素振りはひとつも見せることはしなかった。

「えーっと、こっちに思いっきりジャンプだよ。そしたらオレが引っ張るから」
「こ、こうですか?」

 すぐに次の言葉を並べたその人の頭の回転の早さというか、適応力の良さというか。そういうのに驚く暇もなく、言われたとおりにやってみる。だけれど、柵が大きめの音を立てて揺れ動くだけでそれ以上のことは起こらない。その反動でバランスが崩れそうになるのをなんとか堪えるので精一杯だ。運動音痴とでも言えば分かりやすいのか、なんというか、昔からこういうのはどうにも苦手なのだ。

「待ってそれほぼタックルだから。もっとこう……」

 言われるがまま何度か頑張ってはみたけど、最終的には強引に引っ張られるようにして、なんとか柵を越えることには成功した。だけど、その代償とも言えるくらいには、体力を奪われることになってしまう。
 ドザリと倒れるようにして座り込むふたりの音が、静かな屋上に響き渡った。

「はぁ……疲れた……」

 ふたりで息を整える中、それにしても……と言葉を付け加えながら、彼は僕の方に顔を向ける。

「間に合って、よかった」

 そう言って、何処か安堵のようなものが混じっているようにも見える彼の溢した笑みは、嘘ひとつない綺麗なものだと言っても差支えは無いと思う。目を逸らしたくなってしまうほどに、僕には眩しすぎるものだった。
 まるでそれは、今も天から嫌らしく僕らを眺めている太陽に等しかった。


   ◇


「ほんとビックリしちゃったよ。サボろうと思って屋上に行ったら、知らない人が柵の向こうに立っててさー」

 その言葉が嘘か本当か。どうしてか僕にそう思わせる程に、彼を取り巻く空気が変わるのを感じる。さっきまでの出来事はお遊びだったとでも言いたげに見えて仕方がなかった。煩わしく笑うこの人は、一体何者なのだろうか? 僕のその思いを汲み取ったのか、彼の瞳は真っ直ぐに僕を捉えた。

「あ、自己紹介しておこうかな。オレは橋下 香。えーっと、キョウとでも呼んでよ」

 聞いてもいないのに自己紹介をはじめた彼の言葉に、僕は特別反応を示さなかった。キョウとでも呼んでよ、という部分を完全に無視して、名字を心の中で繰り返す。余りこういうことは言いたくないけど、正直なところ胡散臭いというのが本音だ。会って早々に信用するとは当然ならないわけだが、それに拍車をかけているのはちょっと馴れ馴れしいという点だろう。

「……で、オレはきみの名前教えて欲しいんだけど?」

 コンクリートの地にズボンをつけたまま、その人は僕の顔を覗く。先に名乗られてしまったせいで、こういう場合は嫌でも答えを提示しないといけないのか。全く乗り気ではないが、断る理由があるかと言われるとそうでもないし、適当な嘘は後に面倒なことになる。特に同じ学校となれば、変に名前を偽ったところですぐにバレるだろう。僕は、いつもより重く感じる唇をしょうがなく動かすしかなかった。

「……相谷 光希、です」
「相谷君ね、オレちゃんと覚えた。宜しくね」
「ど、どうも……」
「ところで、授業サボっていいの? オレが言うのもなんだけど」
「……別に、授業なんて好きで出てるわけじゃないので……」
「ま、そうだよねぇ……。あーそうだこれ、相谷くんにあげる」

 自身のことを橋下と名乗った人物は、突然何かを思い出したように両手をコンクリートから離して前のめりになる。全然気付かなかったけど、それに合わせて右手に持っているビニール袋から何かをふたつ取りだして、それを僕へと向けた。

「さっきコンビニの帰りに自販機寄ったら当たっちゃってさー。カフェオレといちご牛乳、相谷くんはどっちがいい?」
「い、いや僕は……」
「えー、ふたつあっても飲みきれないよ。どうせ一個はタダなんだしさ。早くはやくっ」

 だったら持ち帰ればいいのに。そう言いたくなってしまったが、断る隙を与えることなく、ふたつの飲み物をぐいっと僕の胸元近くにまで寄せてくる。さっき出会ったばかりの人にこういうのを貰うのはとても気が引けるけど、こうも押し付けられてしまっては、断るというのは少々難しい。

「……じゃ、じゃあこっちで」

 結局押されるかたちで仕方なく手に取ったのは、僕から見て橋下さんの右手に持たれているいちご牛乳だ。何となくで手にしたいちご牛乳の紙パックの回りには、少し水が滴っていた。

「自販機で売ってるこういうのって、どれも甘いんだよねぇ……」

 そう言いながら、音を立てながらビニール袋からストローを二本取り出した。多分、自動販売機の横辺りに備え付けられているものだろう。ほい、と片方を手渡され、少し躊躇したものの断る理由もないせいで手に取る羽目になった。
 橋下さんは、ストローの袋を破りながら僕にひとつの問いかけをした。

「で、相谷くんはあんなところで何してたの?」

 聞くだけ聞いて、彼はストローに口をつけた。
 敢えてなのか、それともわざとなのか。当てはまるであろう単語をわざわざ使わないで何をしていたのかと聞いてくるあたり、僕の口からそれを言わせようとしているのだろうか? だとしたらかなり性が悪いと言ってもいいだろう。

 ――何をしていたのかなんて、そんなのこっちが聞きたいくらいだというのに。

「……秘密、です」
「ふーん……?」

 僕の口から出たのは、正直余り頭のいいものではなかっただろう。だが、今初めてあった人間にここで馬鹿正直に答えを提示するだなんていうほうが馬鹿だ。
 まるで僕の答えなんて最初から分かっていたかのように、カフェオレを口にしながら適当な返事をする橋下さんだが、彼がこれで引き下がるなんてことはあるわけがなかった。

「じゃあ、何しにここに来たの?」
「……別に、何かしようと思って来たわけじゃないので」
「ふーん」

 僕を見ることなく立て続けに放たれる言葉は、まるで僕に興味なんか無いかのようであるのに、僕に考える余地を与えないようにしているかのようでもあった。果たしてそれが意図的だったのかがさておいて、余りいい心持だとは言い難かった。つまりそれは、完全に彼のペースだったのだ。
 そして、また突然と話は別の話題に切り替わる。

「というかその敬語?  オレ先輩だけど、そういうの止めてほしいなぁ」

 そう言いながらストローから口を離すことをしないこの人のとある言葉に、僕は引っかかりを覚えた。

「……どうして、僕が後輩だって分かるんですか?」

 年齢の話なんてここに至るまでしてないはずなのに、どうして自分が先輩だって言い切るのだろうか? 学校の制服だって、別に学年ごとにネクタイの色が違うとか、そういうのがあるわけでもないのに。

「んー? んー……」

 一体何を考えてはじめたのか、ここではじめて橋下さんの言葉が止まる。

「それは秘密かなぁ」

 言い返すようにして言われた秘密という言葉に、僕は少し驚きを隠せなかったかもしれない。気が気じゃなくて思わず目を伏せてしまったが、どうしてか腑に落ちない自分もいた。そんな気持ちが伝わってしまったのか、橋下さんは少し悪戯みを含んでいるかのようなその口角を上げた。

「だって、相谷くんが教えてくれないんだからおあいこでしょ?」

 それを言われてしまってはぐうの音も出ないのだが、人からそうやって言われるとどうも納得がいかないというか、無駄にもやもやするだけで余計に知りたくなってしまう。それは相手も同じであるはずなのに、何を言っても受け流されてしまっているように見える彼のその態度が、余計僕に知りたいと思わせている要因の気がした。
 僕が何も言わないからそれに対する仕返しなのかなとは思うけど、だからと言って僕がわざわざ授業を抜け出してまでここに来た理由を、正直に言えるわけがない。というより、正確に伝えることなんて僕には出来ないだろう。それに、僕からしたらあんなことはそこまで大した問題じゃない。もっと言うなら、別にどうでもいいのだから。

「さーて、オレは戻ろうかな。やらなきゃいけないことが出来ちゃったし」

 橋下さんが立つと同時に、ビニール袋が控えめな音を立てながら揺れる。くるりと振り向いた時の優しく零れる笑顔が、どうしてか僕の目に酷く焼き付いた。

「じゃあね、光希くん?」

 紙パックを持った手とは反対の手をひらひらと僕に向け、気づけば扉の閉じる音はが何もない屋上に五月蝿く反響していた。やらなきゃいけないことが出来たと言っていたが、一体何なのだろうか? あの言い方からすると授業に戻った訳でも無さそうだけれど、何かをしないといけない状況が出来たというには少し弱い。いや、というか突然名前呼び? まあ別に何でもいいんだけけれど。

「変な人……」

 嵐が過ぎ去ったかのような静寂が響く中、屋上には、結局開けることをしなかったいちご牛乳と僕だけがとり残されている。紙パックの回りにあった水滴は、屋上に吹く風に晒されても尚滴っている。僕はその様子を僅かに視界に入れた後、少し雲が浮かび始めている空に僅かに眉を潜めた。


   ◇


「相谷くーん」

 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴れば、辺りは徐々に喧騒に包まれる。そのほんの数分後に訪れるお昼休みに聞こえてくる僕を呼ぶ声は、もはや定番になりつつあった。

「お昼、一緒に食べない?」

 後ろから聞こえてくるそれは、耳に入れたくなくても勝手に入ってきてしまうというものだ。同時に、僕の口からため息がこぼれ落ちていくのが嫌でもよく分かる。その声の主は、僕が何かをいう前に目の前に座っていたのであろう知らない誰かが居たであろう椅子に座った。
 あの日。屋上でこの橋下さんに出会ってから、この人はほぼ毎日お昼休みに僕のいる教室に足を運んでくるようになった。最初の方は出来るだけ会わないようにと色々工夫して逃げていたけど、どういう訳か必ず見つかってしまうから、僕はいつからか逃げることをしなくなっていた。その代わりという訳ではないけれど、僕の口から何かを発することは余りしなくなった。そもそも僕が自分から喋ることがあったかと聞かれたら肯定は出来ないけど、僕が黙っていてもよく喋る人だし、そこに関してはわりとどうでもいい。
 どうして僕がこうも橋下さんのことを避けようとしていたのかというと、元々僕は誰かと一緒に行動するような人間ではなかったし、それと、あの屋上の時のことをまた何か言われてしまうんじゃないかという思いもあった。単純な話、居心地があまり良くなかったからだ。でも、どうやらその心配は必要なかったようで、あれ以来、その類の話を橋下さんから聞くことは、全くと言っていいほどなかったのだ。

「そろそろパンも飽きたなあ……。いやおにぎり買えよって話なんだけど」

 別に無視した訳ではないんだけれど、その言葉を体現するかのようにずかずかと僕の机と上に荷物を置いて占領していく。それはこの際構わないが、せめて教科書とかををしまった後にして欲しいものだ。
 しょうがなしに、机の上を片付けてお弁当を机の上に出して準備をする。橋下さんはいつものようにコンビニの袋に入ったパンを手に取り、袋を開けながら話を続けた。

「相谷くんっていつもお弁当でしょ? 自分で作ったりしてるの?」
「……ま、まあ」
「へー……。オレ早起き出来ないからそういうの羨ましいっていうか、尊敬するなあ」

 早起き出来ないという橋下さんの言葉に思わず納得してしまいそうだったが、なんとか口にすることはなかった。僕はまだコンビニでお昼ご飯を買ってくるということはしたことはないが、正直自分で作るよりもコンビニの方がマシなんじゃないかと思うことはある。それでもお弁当を自分で作るという行為には、少なからず日常を体現するという意味があった。

「ところでさ、いつも何の曲聞いてるのかそろそろ教えて欲しいなあー」
「だ、駄目ですよっ」
「なんで?」

 思わず食い気味に拒否してしまったことに少し後悔しつつも、嫌なものは嫌なのだからこればっかりはどうしようもない。別に疚しいことがあるわけでもないけど、やっぱり言いたくない思いの方が大きかったのだ。

「な、なんでも……」
「ふーん?」

 適切な言葉が見つからなくて、一番最初に思い付いた言葉を述べる。橋下さんは分かったのか分かっていないのか、空返事にも聞こえるそれを机の上に落とす。ほんの少しの沈黙が走る中、僕は見逃さなかった。彼の目が、チラリと僕のお弁当の中身を見据えたことに。

「ってことで、もーらいっ」
「あ、ちょっと……!」

 だからと言って、僕の瞬発力で止められるかというのは話が別だ。やむなく、卵焼きをひとつ取られてしまう。どうにも腑に落ちないけど、余りにも楽しそうな顔をしていたから、余り気にしないことにした。

「……ちょっとしょっぱくない?」
「勝手に食べておいてなんて言い草ですか……」

 というのは前言撤回。卵焼きがひとつ減った恨みは一生消えないだろう。
 そんなことをしていれば、お昼休みなんてすぐに終わってしまう。それはもう、この前のことなんて何も無かったかのような気にさえなってしまう程に。
 だからという訳でもないだろうが、今のこの状況が日常になりつつあるということが、少しだけ怖い。
 高校に入ってからは出来るだけ波風を立てないように、人と関わらないようにしようと思っていたのに、どうやらそれは難しいらしい。どうしてこの人は、あの一件以降しつこく関わろうとしているのだろう。この際理由を直接聞いてしまおうか? ……否、そんな勇気のいる行為は、極力避けたいという気持ちがどうしても上回る。

 ――酷く無機質な音が、校内中に響き渡りはじめる。
 訳十分前に鳴る予鈴のチャイムによって、邪念に塗れた気が少しだけ飛んだような気がした。

「あ、オレそろそろ行かないとじゃん。……ってことで、戻るね」
「……そ、そうですか」

 力のない僕の声は、荷物を片付け始める橋下さんの手によって恐らくどこかに仕舞われた。

「あ、ねえ。今日の帰りに図書室行かない?」
「それはちょっと……」
「待って否定早くない? 何か用事でもあるの?」

 それなら無理強いはしないけど。一応といった様子で言葉を付け加え、僕の返事を待ち始める。反射的に拒否してしまったけど、よく考えたら特に用事があるわけでもないし、別に拒否する必要も無かったかもしれない。そう思った僕が間違いだったと後で後悔することになるということは、当然この時は知る由もない。

「……いや、用事は別にないですけど」
「じゃあ決まりで。あ、授業終わったらまた来るから。よろしくね」

 馬鹿正直に答えた僕も僕だけど、行くだなんて一言も言っていないのにどうやら放課後図書室に行くことが決まってしまったらしい。僕が異議を唱えようとしたよりも前に、既に片付けを済ましていた橋下さんは占領していた誰かの席を立った。

「また後でね、相谷くん」

 また後で。その言葉がとても重くのし掛かるような錯覚に襲われ、僕はまた、ため息を机に落としていた。

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