誰かが扉をノックする音が、僕のいる部屋に静かに響き渡る。かと思えば、扉は僕の返事を待たずに無造作に開かれた。
「あ、いたいた。今着いたんだって? ……って、部屋こんな色してるんだね」
そう口にしながら当たり前のように僕の部屋に足を踏み入れる男の人を見るに、どうやら僕のことを知っているようだったけど、姿を見ただけでは思い出すまでには至らなかった。分かるのは、せいぜい服装が僕の着ている服となんだか似ているということくらいだろう。似ている、というか制服というのが正しいだろうか。
「えっと……」
「あー、そっか……。相谷くん記憶ないんだっけ?」
相谷。僕の名字が向けられたことと、記憶がないというストレートな言葉に酷く動揺する。ひょっとすると、この人は僕のことを本当に知っているらしい。
でも僕は果たして、目の前にいる人を見たことがあっただろうか? その答えを、今の僕が自力で導くことは容易くない。
「そ、その……」
「あー……どうしようかな……」
少し困った顔をして目をそらすその人は、次の言葉を探しているように見える。それが何だか少し申し訳なかったが、だからと言って今の僕からしたら知らない人のわけだから、かける言葉なんてあるわけがなく僕はただ黙っていることしか出来ずにいた。すると、何かを思い付いた様子で、その人は笑顔を僕に向ける。
「相谷くんがはじめてだって言うなら、やっぱ自己紹介からだよね」
その時、何かが一瞬だけ頭をチラついた。
何処か、空がよく見える風が流れる場所。そこで僕は、その笑顔をどこかで見たことがある。そんな気がした。だが、頭の中に浮かんだ情景は霧がかっているように不鮮明なせいで何かを思い出すというところにまでは至らない。疑問符が頭から離れないまま、目の前にいる人は言葉を出した。
「オレは橋下 香(はしもと きょう)。えーっと、キョウとでも呼んでよ」
「キョウ……?」
その名前に、ほんの少しだけ聞き覚えがあるように感じた僕は、何とか思い出そうと思考を巡らせる。同じ制服を着たキョウって名前の人。何かが引っ掛かりつつも、思い出せるくらいの情報がまだ十分ではないようで、この人の口から出てきたこと以上のことは、何一つとして思い出せなかった。せいぜい出来るのは、恐る恐るこの人の名前を呼ぶことくらいだろう。
「キョウ、さん……?」
「き、キョウさんか……まあいいや。宜しくね」
キョウさん。僕がそう呼ぶと何故か少し驚いていたようだけれど、それはすぐに笑顔へと変わった。
そうだ、僕も自己紹介をしないと。そう思って口を開いたけど、「いや、知ってるから」と笑いながら止められてしまう。何となく残念な気分になってしまったけど、僕のことを本当に知っているらしい人に出会ったからか、ここに来たときよりはどこか落ち着けたような気がした。まるでその僕の気持ちを代弁するかのように、キョウさんは部屋にあるソファに腰を落ち着かせる。それにつられるようにして、僕もソファへと足を進め、僅かな距離を空けて腰を下ろした。
「そうだ。部屋は隣の『126号室』だから、何かあったらいつでも来てよ。どうせ暇だし」
「わ、分かりました……」
「あー……そうか。それも言わなきゃ駄目か……」
どこか言いづらそうにしながらも、キョウさんは僕に視線を向けこう言った。
「敬語、いらないからさ。普通に話してよ」
その言葉に、僕は酷く困ってしまう。普通に話すというのは、今の僕には少し難しい注文だ。だって、僕からしたら目の前にいるのは自己紹介をしたばかりのまだ何も知らない人という認識なわけだから、その人に敬語を使わないというのはどうやっても気が引ける。
キョウさんの言い方からして、多分ここに来る前は敬語じゃなく普通に話していたのだろう。そう思うと、敬語を使うほうが気を使わせてしまうのだろうか。なんて考えていると、ほんの少し沈黙が流れてしまう。やっとの思いで答えを導き出した僕は、どこか緊張しながら言葉を向けた。
「えっと……。分かりまし……じゃなくて、分かっ……た?」
「そうそう。オレ的にはそっちの方がいいな」
どこか満足したように、キョウさんは笑顔を振り撒く。なんだかそれが、僕を不思議な気持ちにさせた。さっきも思ったけど、やっぱり僕は何処かでこの笑顔を見たような気がしてならない。それはつまり、ここに来る前からキョウさんとは出会っていてもっと言うなら、知り合いだということの証明なのだろうか? 敬語は止めてほしいというキョウさんの言葉も、そう考えればまだ理解が出来た。
「……それより聞いた? 部屋の色がその人の人生を表すとか何とかってやつ」
「あ、うん……案内人さんが言ってたよね」
「光希くんのこれ、何色なの?」
「秘色……だったかな」
「ひそく? 何それ」
「分かんない……」
キョウさんと普通に話せていることに少し驚きながらも、少し安心している自分もいる。はじめて会ったようで、やっぱりそうではない。何とも不思議な気持ちが、僕の頭の中に張り巡られていくのが分かる。そして、その隙間を埋めるようにして存在する、今の僕には知り得ないもうひとつの感情。それが、ここに来る前から僕とキョウさんが知り合いだったという事を裏付けるようにして、奥深くに潜んでいるように感じた。
◇
「まあでも、色って言ってもね? その人の人生そのものって言われたところで、よく分かんないよねぇ」
「う、うん……」
橋下……キョウさんの言うことは確かにそうだ。急に知らない場所に連れてこられて、僕の場合は記憶もなくなってしまった。そんな中、『部屋の色は人生を表す』だなんて言われても、いまいちどころか全然ピンとこない。普通……というのとは少し違うかも知れないけれど、それなりに過ごしていたのならそういうのは余り関係ないような気がするけど、そうでもないのだろうか?
部屋の色、という繋がりで思ったけれど、そういえばキョウさんの部屋の色は何色なのだろう。僕は思い切って聞いてみることにした。
「あの……キョウさんの部屋って、何色なの?」
「え? あー……」
そう質問をすると、どうしてか少し答えづらそうにキョウさんは考え込んでしまう。もしかして、聞いたらいけないことを聞いてしまったのかも知れない。
「えっと……。聞かないほうが良かった……?」
「いや、そうじゃないんだけどー。そのー……」
目を泳がせるキョウさんだったけど、観念したというように、その瞳に僕を映した。
「……似紅色(にせべにいろ)、なんだってさ」
「にせべにいろ……?」
「うん。簡単に言うと赤かな? 最初入ったとき一面赤で驚いちゃってさ。それもただの赤じゃなくて似紅ってなに? って感じじゃない? いや普通に赤ならまだ分かるっていうか、いやそれでも全然意味が分からないけど、似紅だよ?」
「似紅……」
キョウさんの顔が少し曇ったのは、どうやら僕の質問のせいではなく単純に部屋の色が似紅という名前だというのが気に入らないかららしい。
似紅色。確かに、喜んでいいのか分からないような名前ではある。赤の一種みたいだけど、それがどんな色をしているのかは僕には想像がつかない。あとでキョウさんの部屋を見せてほしい、なんて言ったら、キョウさんは承諾してくれるだろうか。
「それより、今何時なのかなあ……。時計とか探したんだけど、何処にもないんだよね」
「そういえば……」
辺りを見回しても、キョウさんの言う通り、時計らしいものが何処にもない。確かに、ホテルだというのに時計やその類のものを見た記憶がないなんてかなりの違和感がある。ちゃんと見たわけではないけれど、一見ありそうな受付のカウンターのところにも時計のようなモノはなかったような気がする。何か特別な理由でもあるのだろうか?
「そういえば、光希くんって来たばっかりだし疲れてない? オレ普通に長居しちゃってるけど……」
キョウさんに言われて、はじめて気付いた。確かに部屋に案内された直後にキョウさんが来たから、落ち着いて休むという感じではなかったかもしれない。特になにも考えていなかったけど、改めて言われると何故か体が重く感じてしまう。それもそうだろう。目を開けたら知らない場所で、しかも記憶がないなんて言われたこの状況で、疲れていないということはある筈がなかった。
「……じゃあ、一旦部屋に戻ろうかな。あんまり邪魔したら悪いし」
「そっか……」
「あ、今度はオレの部屋にでも来てよ。どこも赤だから、かなり落ち着かないけど」
隣に座っていたキョウさんは腰を上げ、扉のあるほうへと足を向ける。
――その様子に、突然言いようがない不安に駆られた。
「き、キョウさんっ……!」
「わっ……な、なに?」
考えるよりも前に、体が勝手に動く。気付いた時には、僕はキョウさんの腕を掴んでまでして引き止めてしまっていた。
こんなことなんて日常ではよくあるなんてことない場面であるにも関わらず、背を向けられているこの状況がなんだかいつものそれとは違うように見えてしまった。
あの時は、呼び止めるということが出来なかったから。
だからキョウさんを呼び止めなければいけない。そう思ったのだ。
「あ、その……」
「……どうかした?」
「えっと……」
咄嗟に掴んでしまった腕を、急いで離す。
僕の行動に、当然ながら不思議そうな表情を見せるキョウさんが、僕の目に映る。でも多分、一番困惑しているのは僕のほうで、どうしてこんな行動をとったのかが本当に分からなかった。
「……オレ、逃げないからさ」
「え……?」
「いつでも来てよ」
そんな僕とは裏腹に、キョウさんは何も動じていないといった様子で言葉を紡ぐ。……この人は、いつだって笑顔だった。
「じゃあ、またね」
ドアが閉まるほんの少し前、キョウさんは僕に向けて手を振ってくれた。それにつられるようにして、僕もキョウさんに小さく手を振り返す。さっきまでの喧騒は扉が閉じると同時に遮断され、またしても部屋には僕ひとりだけが残された。
ほんの少しだけ寂しく感じてしまうのは、記憶がないにも関わらず僕がキョウさんを知り合いと認識したからなのだろう。さっきのこともあってか後ろ髪引かれる思いはあるけど、だからと言って今すぐキョウさんの部屋に行ったところで特に用があるわけでもない。
取りあえず、もう一度ソファに座って落ち着こう。そう思った時、突然制服についている右ポケットに何かが入っているようなずしりと重くなる感覚に苛まれた。急に訪れたそれに疑問を抱きつつ、中を探ってポケットに入っていた何かを取り出す。
「……音楽、プレイヤー?」
僕の手に掴まれて出てきたのは、見覚えのある青々しいもの。正確にいうなら青い音楽プレイヤーと青いイヤホン。なのだけれど、何も入っていなかったはずのポケットからどうして急に湧いたように出てきたのだろうか? これが一体どこから出てきたのか、僕には理解が出来なくてとても不思議でしょうがない。ただ、出てきたそれらが明らかに僕のものだと分かる。どうしてかと聞かれれば、どう見ても僕のものだから。なんていう答えにすらなっていない言葉しか出てこないくらいに、それは僕のものだと断言が出来た。
なんだか久しぶりに見た気がするそれを、僕は徐に起動させる。どうやらちゃんと動くようで、イヤホンを耳に入れれば、いつもの音楽が流れてくるのをひしひしと感じた。
……いつもの、と言えるくらいには、僕はこれを肌身離さず持っていた。そのはずだ。
「案内人さん達に聞いたら、なにか分かるかな……」
確かに僕のものではあるけれど、突然現れたという部分に少し不気味さを感じてしまう。それなら、誰かに聞いた方が理由も分かるかも知れないし、何より僕が落ち着かない。
ああでも、もう少しこの曲を聞いていたいから、話にいくのはまだいいかな。それに、やっぱりちょっと疲れたのだ。そんな最もらしい言い訳を心の中でしながら、僕はソファへと体を預ける。疲れが一気に来たような感覚に襲われるのが、嫌になるほど伝わってきた。瞼が重くのし掛かり、あっという間に眠気が僕を包んでいく。
そんな中、どうしてか僕はこう思ってしまう。
どうせなら、このまま目が覚めなければいいのに、と。
――いつしか、部屋から聞こえるのは寝息だけになっていた。
◇
――その日は、とてもいい天気だった。
雲ひとつない、快晴という言葉がピッタリな空。学年が変わり新しい環境が始まったばかりの時期に、穏やかな風に乗って僕を照らしてくる太陽の光。一面に広がる青い世界にたまに現れる、羽を伸ばして何処かへと飛んでいく複数の鳥。それらを学校の屋上からひとりで眺めるだなんて、きっととても贅沢なことなのだろう。
そうだ、こんなに澄んだいい天気の日は、それに似合った僕の好きな音楽でも聴くのが一番だ。ポケットに入ってる音楽プレーヤーを手にとり、それに付随しているイヤホンを耳に入れ、空なんか視界に入れないようにと瞼を閉じる。目を瞑った理由は、音楽プレイヤーから流れるそれを心から堪能するためというのもあるけれど、それともうひとつ。
この、どこまでも広がる青い空が。眩しく光る太陽に問題があった。
単純に、目障りだったのだ。
でも、だからこそ今日はここにいる。五時間目という一日の終わりを示す授業をサボって、わざわざ誰もいないであろう時間を狙って、僕はここに足を運んだ。
ここに来て一体どれくらい時間が経っただろう? 感覚的には授業が始まってまだ十分ほどしか経っていないように感じるけど、僕が思っているよりも時間は進んでいるのだろうか?
サラサラと、髪の毛が頬にかかる。風で髪が靡いたことの象徴だ。その風が、どうしてか僕に向かって「もうそろそろいいでしょう?」と、そう言っているように感じた。
僕は、それに答えるかのようにゆっくりと瞼を開ける。ここ最近、ずっと思っていたことがあった。もし、僕の世界が終わる時。その時は、好きな音楽を聴きながら全てを終わらせたいと。だってせっかくそれが出来る状況なのであれば、どうせなら自分を取り巻くすべてのものを、自分の思う好きで埋め尽くしたいじゃないか。
僕は、自分でも驚くほどに淡々と屋上を囲っているそれを乗り越えた。あとどれくらいの時間が経てば、僕はこの柵を握りしめているそれを外すのだろう? ここに立って改めて思ったのは、どうしてもっと早くこうしようと思わなかったのだろうかということ。ああそうだ。靴なんて邪魔なものは、ちゃんと置いていかないとならない。柵の向こう、僕がさっきまでいた場所辺りに、靴を無造作に置く。本来ならもう少し丁寧に置くべきなのだろうけど、そんなことにはもう構う必要がない。
向き直って、目の前に広がっている腹が立つほどに青々しいそれを、淡々と目に焼き付ける。嫌いではあるけれど、どうせなら綺麗な景色を見たままでいたい。なんていう、僕の完全な我儘だった。
そして、やることと言えばあと一歩右足を前に出し、重心を前に乗せるだけ。そうすれば、終わる。僕の世界は、これですべて終わるのだ。
――そのはずだった。
「……何してるの?」
僕の邪魔をする、ひとりの男が現れた。
知らない誰かが、力強く僕の腕を掴む。こういう時、必ずと言っていいほど誰かがやってくる。そして、偽善者は心配そうな面持ちで僕を止める。相場は決まっているというものだ。
「ねえ、そんなところに居たら危ないよ?」
振り向いた先。音楽を聴いていて気付かなかったけど、柵を反して知らない学生が神妙な顔をしていた。僕の腕を離さまいと主張するかのように、段々とその力が大きくなっていくのを感じる。
「そう……ですね」
なんて、相手に同調したりなんかしてしまったのが馬鹿らしい。
目の前にいる人は、何をそんな怪訝な顔をしているのだろうか? ああ、もしかして誤解されてしまった? このまま僕が、地面へと堕ちるかのように見えてしまったのだろうか? こんな綺麗でいい天気の日に自ら命を投げ出すなんて、そんな馬鹿みたいなことをするはずがないというのに。
「雲ひとつ無い空だったから、もう少し近くで見てみようかなって。……そう思っただけですよ」
我ながら、なんて状況と不釣り合いな言葉なのだろう。柵の向こう側に靴まで置いて、掴まれている手を無理矢理払いのけ、柵から手を離せばそのまま堕ちることが可能であろうこの状況で。わざわざ自分に言い聞かせるようにして、心の中で無理矢理理由をつけて。更に言葉でも、僕は嘘を吐いた。
「あ、いたいた。今着いたんだって? ……って、部屋こんな色してるんだね」
そう口にしながら当たり前のように僕の部屋に足を踏み入れる男の人を見るに、どうやら僕のことを知っているようだったけど、姿を見ただけでは思い出すまでには至らなかった。分かるのは、せいぜい服装が僕の着ている服となんだか似ているということくらいだろう。似ている、というか制服というのが正しいだろうか。
「えっと……」
「あー、そっか……。相谷くん記憶ないんだっけ?」
相谷。僕の名字が向けられたことと、記憶がないというストレートな言葉に酷く動揺する。ひょっとすると、この人は僕のことを本当に知っているらしい。
でも僕は果たして、目の前にいる人を見たことがあっただろうか? その答えを、今の僕が自力で導くことは容易くない。
「そ、その……」
「あー……どうしようかな……」
少し困った顔をして目をそらすその人は、次の言葉を探しているように見える。それが何だか少し申し訳なかったが、だからと言って今の僕からしたら知らない人のわけだから、かける言葉なんてあるわけがなく僕はただ黙っていることしか出来ずにいた。すると、何かを思い付いた様子で、その人は笑顔を僕に向ける。
「相谷くんがはじめてだって言うなら、やっぱ自己紹介からだよね」
その時、何かが一瞬だけ頭をチラついた。
何処か、空がよく見える風が流れる場所。そこで僕は、その笑顔をどこかで見たことがある。そんな気がした。だが、頭の中に浮かんだ情景は霧がかっているように不鮮明なせいで何かを思い出すというところにまでは至らない。疑問符が頭から離れないまま、目の前にいる人は言葉を出した。
「オレは橋下 香(はしもと きょう)。えーっと、キョウとでも呼んでよ」
「キョウ……?」
その名前に、ほんの少しだけ聞き覚えがあるように感じた僕は、何とか思い出そうと思考を巡らせる。同じ制服を着たキョウって名前の人。何かが引っ掛かりつつも、思い出せるくらいの情報がまだ十分ではないようで、この人の口から出てきたこと以上のことは、何一つとして思い出せなかった。せいぜい出来るのは、恐る恐るこの人の名前を呼ぶことくらいだろう。
「キョウ、さん……?」
「き、キョウさんか……まあいいや。宜しくね」
キョウさん。僕がそう呼ぶと何故か少し驚いていたようだけれど、それはすぐに笑顔へと変わった。
そうだ、僕も自己紹介をしないと。そう思って口を開いたけど、「いや、知ってるから」と笑いながら止められてしまう。何となく残念な気分になってしまったけど、僕のことを本当に知っているらしい人に出会ったからか、ここに来たときよりはどこか落ち着けたような気がした。まるでその僕の気持ちを代弁するかのように、キョウさんは部屋にあるソファに腰を落ち着かせる。それにつられるようにして、僕もソファへと足を進め、僅かな距離を空けて腰を下ろした。
「そうだ。部屋は隣の『126号室』だから、何かあったらいつでも来てよ。どうせ暇だし」
「わ、分かりました……」
「あー……そうか。それも言わなきゃ駄目か……」
どこか言いづらそうにしながらも、キョウさんは僕に視線を向けこう言った。
「敬語、いらないからさ。普通に話してよ」
その言葉に、僕は酷く困ってしまう。普通に話すというのは、今の僕には少し難しい注文だ。だって、僕からしたら目の前にいるのは自己紹介をしたばかりのまだ何も知らない人という認識なわけだから、その人に敬語を使わないというのはどうやっても気が引ける。
キョウさんの言い方からして、多分ここに来る前は敬語じゃなく普通に話していたのだろう。そう思うと、敬語を使うほうが気を使わせてしまうのだろうか。なんて考えていると、ほんの少し沈黙が流れてしまう。やっとの思いで答えを導き出した僕は、どこか緊張しながら言葉を向けた。
「えっと……。分かりまし……じゃなくて、分かっ……た?」
「そうそう。オレ的にはそっちの方がいいな」
どこか満足したように、キョウさんは笑顔を振り撒く。なんだかそれが、僕を不思議な気持ちにさせた。さっきも思ったけど、やっぱり僕は何処かでこの笑顔を見たような気がしてならない。それはつまり、ここに来る前からキョウさんとは出会っていてもっと言うなら、知り合いだということの証明なのだろうか? 敬語は止めてほしいというキョウさんの言葉も、そう考えればまだ理解が出来た。
「……それより聞いた? 部屋の色がその人の人生を表すとか何とかってやつ」
「あ、うん……案内人さんが言ってたよね」
「光希くんのこれ、何色なの?」
「秘色……だったかな」
「ひそく? 何それ」
「分かんない……」
キョウさんと普通に話せていることに少し驚きながらも、少し安心している自分もいる。はじめて会ったようで、やっぱりそうではない。何とも不思議な気持ちが、僕の頭の中に張り巡られていくのが分かる。そして、その隙間を埋めるようにして存在する、今の僕には知り得ないもうひとつの感情。それが、ここに来る前から僕とキョウさんが知り合いだったという事を裏付けるようにして、奥深くに潜んでいるように感じた。
◇
「まあでも、色って言ってもね? その人の人生そのものって言われたところで、よく分かんないよねぇ」
「う、うん……」
橋下……キョウさんの言うことは確かにそうだ。急に知らない場所に連れてこられて、僕の場合は記憶もなくなってしまった。そんな中、『部屋の色は人生を表す』だなんて言われても、いまいちどころか全然ピンとこない。普通……というのとは少し違うかも知れないけれど、それなりに過ごしていたのならそういうのは余り関係ないような気がするけど、そうでもないのだろうか?
部屋の色、という繋がりで思ったけれど、そういえばキョウさんの部屋の色は何色なのだろう。僕は思い切って聞いてみることにした。
「あの……キョウさんの部屋って、何色なの?」
「え? あー……」
そう質問をすると、どうしてか少し答えづらそうにキョウさんは考え込んでしまう。もしかして、聞いたらいけないことを聞いてしまったのかも知れない。
「えっと……。聞かないほうが良かった……?」
「いや、そうじゃないんだけどー。そのー……」
目を泳がせるキョウさんだったけど、観念したというように、その瞳に僕を映した。
「……似紅色(にせべにいろ)、なんだってさ」
「にせべにいろ……?」
「うん。簡単に言うと赤かな? 最初入ったとき一面赤で驚いちゃってさ。それもただの赤じゃなくて似紅ってなに? って感じじゃない? いや普通に赤ならまだ分かるっていうか、いやそれでも全然意味が分からないけど、似紅だよ?」
「似紅……」
キョウさんの顔が少し曇ったのは、どうやら僕の質問のせいではなく単純に部屋の色が似紅という名前だというのが気に入らないかららしい。
似紅色。確かに、喜んでいいのか分からないような名前ではある。赤の一種みたいだけど、それがどんな色をしているのかは僕には想像がつかない。あとでキョウさんの部屋を見せてほしい、なんて言ったら、キョウさんは承諾してくれるだろうか。
「それより、今何時なのかなあ……。時計とか探したんだけど、何処にもないんだよね」
「そういえば……」
辺りを見回しても、キョウさんの言う通り、時計らしいものが何処にもない。確かに、ホテルだというのに時計やその類のものを見た記憶がないなんてかなりの違和感がある。ちゃんと見たわけではないけれど、一見ありそうな受付のカウンターのところにも時計のようなモノはなかったような気がする。何か特別な理由でもあるのだろうか?
「そういえば、光希くんって来たばっかりだし疲れてない? オレ普通に長居しちゃってるけど……」
キョウさんに言われて、はじめて気付いた。確かに部屋に案内された直後にキョウさんが来たから、落ち着いて休むという感じではなかったかもしれない。特になにも考えていなかったけど、改めて言われると何故か体が重く感じてしまう。それもそうだろう。目を開けたら知らない場所で、しかも記憶がないなんて言われたこの状況で、疲れていないということはある筈がなかった。
「……じゃあ、一旦部屋に戻ろうかな。あんまり邪魔したら悪いし」
「そっか……」
「あ、今度はオレの部屋にでも来てよ。どこも赤だから、かなり落ち着かないけど」
隣に座っていたキョウさんは腰を上げ、扉のあるほうへと足を向ける。
――その様子に、突然言いようがない不安に駆られた。
「き、キョウさんっ……!」
「わっ……な、なに?」
考えるよりも前に、体が勝手に動く。気付いた時には、僕はキョウさんの腕を掴んでまでして引き止めてしまっていた。
こんなことなんて日常ではよくあるなんてことない場面であるにも関わらず、背を向けられているこの状況がなんだかいつものそれとは違うように見えてしまった。
あの時は、呼び止めるということが出来なかったから。
だからキョウさんを呼び止めなければいけない。そう思ったのだ。
「あ、その……」
「……どうかした?」
「えっと……」
咄嗟に掴んでしまった腕を、急いで離す。
僕の行動に、当然ながら不思議そうな表情を見せるキョウさんが、僕の目に映る。でも多分、一番困惑しているのは僕のほうで、どうしてこんな行動をとったのかが本当に分からなかった。
「……オレ、逃げないからさ」
「え……?」
「いつでも来てよ」
そんな僕とは裏腹に、キョウさんは何も動じていないといった様子で言葉を紡ぐ。……この人は、いつだって笑顔だった。
「じゃあ、またね」
ドアが閉まるほんの少し前、キョウさんは僕に向けて手を振ってくれた。それにつられるようにして、僕もキョウさんに小さく手を振り返す。さっきまでの喧騒は扉が閉じると同時に遮断され、またしても部屋には僕ひとりだけが残された。
ほんの少しだけ寂しく感じてしまうのは、記憶がないにも関わらず僕がキョウさんを知り合いと認識したからなのだろう。さっきのこともあってか後ろ髪引かれる思いはあるけど、だからと言って今すぐキョウさんの部屋に行ったところで特に用があるわけでもない。
取りあえず、もう一度ソファに座って落ち着こう。そう思った時、突然制服についている右ポケットに何かが入っているようなずしりと重くなる感覚に苛まれた。急に訪れたそれに疑問を抱きつつ、中を探ってポケットに入っていた何かを取り出す。
「……音楽、プレイヤー?」
僕の手に掴まれて出てきたのは、見覚えのある青々しいもの。正確にいうなら青い音楽プレイヤーと青いイヤホン。なのだけれど、何も入っていなかったはずのポケットからどうして急に湧いたように出てきたのだろうか? これが一体どこから出てきたのか、僕には理解が出来なくてとても不思議でしょうがない。ただ、出てきたそれらが明らかに僕のものだと分かる。どうしてかと聞かれれば、どう見ても僕のものだから。なんていう答えにすらなっていない言葉しか出てこないくらいに、それは僕のものだと断言が出来た。
なんだか久しぶりに見た気がするそれを、僕は徐に起動させる。どうやらちゃんと動くようで、イヤホンを耳に入れれば、いつもの音楽が流れてくるのをひしひしと感じた。
……いつもの、と言えるくらいには、僕はこれを肌身離さず持っていた。そのはずだ。
「案内人さん達に聞いたら、なにか分かるかな……」
確かに僕のものではあるけれど、突然現れたという部分に少し不気味さを感じてしまう。それなら、誰かに聞いた方が理由も分かるかも知れないし、何より僕が落ち着かない。
ああでも、もう少しこの曲を聞いていたいから、話にいくのはまだいいかな。それに、やっぱりちょっと疲れたのだ。そんな最もらしい言い訳を心の中でしながら、僕はソファへと体を預ける。疲れが一気に来たような感覚に襲われるのが、嫌になるほど伝わってきた。瞼が重くのし掛かり、あっという間に眠気が僕を包んでいく。
そんな中、どうしてか僕はこう思ってしまう。
どうせなら、このまま目が覚めなければいいのに、と。
――いつしか、部屋から聞こえるのは寝息だけになっていた。
◇
――その日は、とてもいい天気だった。
雲ひとつない、快晴という言葉がピッタリな空。学年が変わり新しい環境が始まったばかりの時期に、穏やかな風に乗って僕を照らしてくる太陽の光。一面に広がる青い世界にたまに現れる、羽を伸ばして何処かへと飛んでいく複数の鳥。それらを学校の屋上からひとりで眺めるだなんて、きっととても贅沢なことなのだろう。
そうだ、こんなに澄んだいい天気の日は、それに似合った僕の好きな音楽でも聴くのが一番だ。ポケットに入ってる音楽プレーヤーを手にとり、それに付随しているイヤホンを耳に入れ、空なんか視界に入れないようにと瞼を閉じる。目を瞑った理由は、音楽プレイヤーから流れるそれを心から堪能するためというのもあるけれど、それともうひとつ。
この、どこまでも広がる青い空が。眩しく光る太陽に問題があった。
単純に、目障りだったのだ。
でも、だからこそ今日はここにいる。五時間目という一日の終わりを示す授業をサボって、わざわざ誰もいないであろう時間を狙って、僕はここに足を運んだ。
ここに来て一体どれくらい時間が経っただろう? 感覚的には授業が始まってまだ十分ほどしか経っていないように感じるけど、僕が思っているよりも時間は進んでいるのだろうか?
サラサラと、髪の毛が頬にかかる。風で髪が靡いたことの象徴だ。その風が、どうしてか僕に向かって「もうそろそろいいでしょう?」と、そう言っているように感じた。
僕は、それに答えるかのようにゆっくりと瞼を開ける。ここ最近、ずっと思っていたことがあった。もし、僕の世界が終わる時。その時は、好きな音楽を聴きながら全てを終わらせたいと。だってせっかくそれが出来る状況なのであれば、どうせなら自分を取り巻くすべてのものを、自分の思う好きで埋め尽くしたいじゃないか。
僕は、自分でも驚くほどに淡々と屋上を囲っているそれを乗り越えた。あとどれくらいの時間が経てば、僕はこの柵を握りしめているそれを外すのだろう? ここに立って改めて思ったのは、どうしてもっと早くこうしようと思わなかったのだろうかということ。ああそうだ。靴なんて邪魔なものは、ちゃんと置いていかないとならない。柵の向こう、僕がさっきまでいた場所辺りに、靴を無造作に置く。本来ならもう少し丁寧に置くべきなのだろうけど、そんなことにはもう構う必要がない。
向き直って、目の前に広がっている腹が立つほどに青々しいそれを、淡々と目に焼き付ける。嫌いではあるけれど、どうせなら綺麗な景色を見たままでいたい。なんていう、僕の完全な我儘だった。
そして、やることと言えばあと一歩右足を前に出し、重心を前に乗せるだけ。そうすれば、終わる。僕の世界は、これですべて終わるのだ。
――そのはずだった。
「……何してるの?」
僕の邪魔をする、ひとりの男が現れた。
知らない誰かが、力強く僕の腕を掴む。こういう時、必ずと言っていいほど誰かがやってくる。そして、偽善者は心配そうな面持ちで僕を止める。相場は決まっているというものだ。
「ねえ、そんなところに居たら危ないよ?」
振り向いた先。音楽を聴いていて気付かなかったけど、柵を反して知らない学生が神妙な顔をしていた。僕の腕を離さまいと主張するかのように、段々とその力が大きくなっていくのを感じる。
「そう……ですね」
なんて、相手に同調したりなんかしてしまったのが馬鹿らしい。
目の前にいる人は、何をそんな怪訝な顔をしているのだろうか? ああ、もしかして誤解されてしまった? このまま僕が、地面へと堕ちるかのように見えてしまったのだろうか? こんな綺麗でいい天気の日に自ら命を投げ出すなんて、そんな馬鹿みたいなことをするはずがないというのに。
「雲ひとつ無い空だったから、もう少し近くで見てみようかなって。……そう思っただけですよ」
我ながら、なんて状況と不釣り合いな言葉なのだろう。柵の向こう側に靴まで置いて、掴まれている手を無理矢理払いのけ、柵から手を離せばそのまま堕ちることが可能であろうこの状況で。わざわざ自分に言い聞かせるようにして、心の中で無理矢理理由をつけて。更に言葉でも、僕は嘘を吐いた。