世界はきっと、沢山の色に溢れている。目に映るモノ以上に蔓延るそれらは、恐らく認識されることを望んでいるから色づいているはずなのに、人間の能力の限界によって把握できない色は山のようにあるのだろう。
でも、もしそれら全てを把握出来たとしたらどうだろうか? 視界に入るモノ全てが鮮やかに映り、毎分毎秒新鮮な気持ちで物事を把握出来るのかも知れないが、情報量が多すぎて煩わしくなってしまうかも知れない。
それなら僕は、視えないほうが断然マシだと思ってしまう。
自分の知りたいと思う情報以外の存在は、知る必要なんてない。そのはずだ。
僕は重くのしかかる瞼を動かす。何か、嫌なモノが視界に入らなければいいなと思いながら、ゆっくりと目を開ける。僕の目に映ったそれらに、僕はたちまち首を傾げた。
「……あれ?」
辺り一面に広がっていた真っ白な空間に、僕は目を丸くした。
◇
目の前に広がる、何色にも染まることをしない白という存在に包まれた空間が、どうしてか知らない間に僕の周りを取り巻いていたらしい。
辺り一面が白で埋め尽くされた世界で、僕は何をするでもなくその場に立ち尽くしている。今、一体どういう状況に自分が置かれているのか、それを自分の中で解決するには、余りにも情報が少な過ぎる景色だった。
「……ここ、どこだろう」
今までいたであろ世界とは明らかに違うと分かるその場所に、当然ながら疑問を展開した。どうして僕は、こんな何もないところにいるのだろう。どう見ても非現実的なこの状況は、実は夢だったりするのだろうか? 静寂に呑まれたこの空間の中、僕しかいないはずなのに、何かが蠢いている気がするのは恐らくは気のせいだと思いたい。僅かながらに取り戻した思考のせいで、余り考えたくないことまで考えてしまう。いるはずのない何か、認識してはいけないようなモノがすぐ側にいるような気がして、僕は思わず息を呑んだ。
しかしそれは正しく、ここに長居してはいけないと本能的な部分からの警告のようで、思わず辺りを見回した。ここに居続けてしまったら、僕はもう戻れないんじゃないだろうか。この白一色の景色が視界に入る度に、そう思ってしまう。
僕は、何かに駆られるようにして自然と足を動かした。遠くに見える地平線のようなものと、その地平線へと向かうようにして地面に書かれている、等間隔の細長い線のお陰で、地面の在処だけは分かるのが救いだった。知らない場所をひとりで歩くというのはかなりの不安要素ではあるけれど、少し歩けば何かあるかも知れない。今は目に見えないだけで、何かがあるかも知れない。そんな微かな期待は、僕を動かすのには十分だった。
目的地があるわけでは当然無く、とりあえず自分が向いていた方へと歩き出す。タイルを踏みしめるような擦れた音が僅かに聞こえてくるのが、僕が動いているということの証ではあったけれど、それ以外は特に何もなかった。歩いても歩いても、見えるのは白。この、僕だけが色づいているというのがおかしいんじゃないかと思える程のこの空間に、普通なら自然と焦りと共に恐怖に似た何かを覚えるのかも知れない。
不安というものは確かにある。でも、それとこれとは話が別で、僕は至って冷静だった。
「……何もないな」
何もないただの白い空間。これがいつか、色を持つ僕を白く染め上げてしまうのではないか。そう思ってしまったばっかりか、僕の足は自然と止まっていた。
「……ここに来る前、何してたっけ」
この言葉は、決して今置かれている状況に混乱しているから出たものではない。いざ考えようとすると、何にも出てこない。まるで僕のどこかに穴が開いてしまったかのように、僕の記憶がどこかに落ちてなくなってしまった。そんな感覚だった。
この白という何にも染まっていない色が、まるで今の僕の空っぽな状態を表しているかのような気さえしてしまう。それくらい、今の僕には自分が何者なのかを示せる記憶というものが、何一つ残っていない。それは、自分の名前も例外ではなかった。
視線が、思わず地面に落ちるた。恐らくは今までにないくらいの落胆だった。考える力があるのだから完全に記憶がないというわけではないのだろう。しかし、ここに来る前に何をしていたのかも分からないというのは、些か不気味と呼ぶにふさわしい。
人間というのは単純なもので、そう思ってしまえば他のことなんて考えられなくなってしまう。何をするでもなくその場に立ち尽くしていると、何か、何処か遠くのほうから音が反響するのが分かった。それが人の足音だと分かるよりも早く、僕は既にその音の方向に視線を向けていた。少しずつ近づいてくるそれの正体が分かるのには、ほんの少しだけ時間が必要だった。
それは思いのほか近く、その何かが目の前まで来るのにはそう時間はかからない。それまでの間、僕は近づいてくるそれをずっと見ていることしか出来ないでいた。残り数歩といったところだろうか。そこまで近づかれても尚、僕はなにか行動を起こすということをしなかった。
目の前にまで来た優しく微笑むとある存在は、僕に向かってこう口にする。
『やあ、探したよ。見つかって良かった』
黒いスーツに身を包み、ハットを被ったひとりの男の人。年齢は四十代くらいだろうか?
『迷っているのかな?』
そう問われた僕は、特に不信感を抱くこともなく当たり前のように口を動かす。
「どこも真っ白だから、どうしたらいいか分からなくて……」
『そうなんだよねぇ……。殆どのニンゲンが、ここで途方に暮れるんだ。ワタシが見つけられなかったら消えてしまうというのに』
本当に困ったよ。そう言いながらため息を溢す男の人だが、どうも言っている意味が理解しがたい。ここで途方に暮れる? 消えてしまう? 途方に暮れるというのは確かにそうだけれど、それなら僕以外の誰かもここに来たことがあるのだろうか? それに、消えてしまうというのが一番気がかりだった。
疑問を隠せない僕の表情に気付いたのか、男の人は僕に向かってさっきと同じような笑みを浮かべた。
『……それはそうと、キミはここに来る前のことを何か覚えているかな?』
その言葉に、僕は内心ドキリとした。特別悪いことなんてしていないはずなのに、僅かに目を伏せてしまう。
「いや、何も……」
『そうか……ああいや、そのことだったら気にしなくて大丈夫さ。よくあるんだ』
「よく……?」
『ああ、まあ……わりと、かな? それより、ここは余り長居するところでもないから、場所を移動しようか』
僕の疑問を曖昧にかわした男の人は、胸ポケットに刺さっているひとつのペンを取り出す。おもむろにキャップを外し、本来なら到底書くことの出来ない空中に、なんと線のようなものを書き始めた。今まで何も無かったただの白い空間に、彼が書いたのであろう小さな長方形が浮かび上がっていく。
驚嘆したままただ眺めているだけの僕をよそに、男の人が空中に書かれたそれに触れると、徐々にモノとして形成していくのがよく分かった。それが一体何を形作ろうとしているのかが分かった時、僕は目を丸くした。
そこに現れたのは、ひとつの大きな扉。ただの黒い線で出来た長方形ではなく、まるで最初からそこに存在していたかのように、何処かへと繋がる扉としてそこに現れたのだ。さながら、それはまるでマジック……いや魔法のようで、今自分が置かれている状況を忘れてしまう程に心躍ってしまうのが分かる。
そんな僕のことなんて気付いていないかのようにして、男の人は一貫して笑みを溢していた。
『さあ、コチラへどうぞ。……お客様?』
その言葉が終わったと同時に開かれた扉。その扉の先は、先が何も視えない程にとても眩しく、思わず片目をつぶり手で覆ってしまう程だ。僕は僅かに後ろに仰け反りながらも、まるで何かに導かれるかのように足を運んでいく。はじめて会った男の人の言うことを疑うということはしなかったのか? この先にあるものの不安とかちゃんと考えなかったのか? そんな声が傍から聞こえてきそうな程に、僕の行動は自然だった。どうしてこう、導かれるまま足を進めてしまったのか。そんなことを聞かれても、ちゃんとした答えを出すことは恐らく出来ない。これが例えば、記憶をちゃんと持っていたとしてもだ。
ただ単に、僕はその先に行かなければならなかった。そんな曖昧な確信が、僕の足を動かした。ただそれだけのこと。
僕は、ほんの一瞬だけ今までいた白い空間を横目に入れる。どうしてか名残惜しいだなんていう感情が僕の中に生まれてしまっていたことに、この時の僕は多分気付いていない。
――彼らが扉に足を運び終えると、扉は彩られた光と共に跡形もなく消えてしまう。その突如現れた扉にはとある文言が書かれているプレートがぶら下がっていたのだが、きっと、それを見る余裕なんてあの時の彼には無いに等しかったのだろう。
誰もいなくなった空間に、カタリと何かが地面に落ちた音がする。その犯人は、扉に吊るされていたプレート。
そのプレートには、『time out』という文字が書かれていた。
◇
その光は、誰もが思っているよりも優しく、かつ鮮明に僕のことを捉えていた。それくらいに眩しく感じた光が段々と落ち着いてくるのが、まぶた越しでも伝わってくる。それを合図に、僕は恐る恐る覆っていた手を視界から外した。
右からゆっくりと瞼を上げ、まるで迷子の子供のように辺りを見回してしまう。相変わらず白い空間がそこにはあったが、さっきと決定的に違うのは、ちゃんとモノが何処にあるのかというのが認識出来るということだ。左右に対称的に存在している階段とテーブルとソファー。さらに、僕の目の前には誰もいないカウンターのようなものがポツンと置いてあるだけだった。
「……また誰もいないのか。困ったものだね」
ともなくして後ろから聞こえてきた聞き覚えのある男性の声によると、どうやら本来ならここに誰かがいるらしいけれど、今は何処かに行ってしまっているらしい。その結果、白いカウンターだけが僕を迎え入れることとなったようだ。
「すまないね、キミを迎える人物がいなくて。まあ、何処かで彼らにも出会えるだろうから、自己紹介はその時にでもさせるとするよ。ああ、安心してくれ。キミの名前はちゃんと控えてあるからね。少し落ち着いてからにしよう」
カウンターの横に並べられているソファへと促されるまま、僕はゆっくりと腰をかけた。向かいに座った男の人が取り出したのは、とある一枚の紙。少し見ただけでもその紙には難しいことが書いてあるというのがよく分かるくらいに、一言一句定型文のようなものが羅列されていた。
「簡単に説明すると、ここはいわゆるホテルみたいなものだと思ってくれていい。滞在時間は今日を含めて一週間。その一週間でキミが何を思うのか、キミが良ければ是非教えて欲しいものだね」
「ホテル……?」
確かに、言われてみればホテルという言葉がしっくりくるかも知れない。真っ白な受付のようなカウンター。それに、今僕が座っている待合所のような場所。色があったら、もっと分かりやすくホテルだと認識できたのだろうか。
「質問があったらいつでも聞くよ」
ここまでの流れの中、特別なにも聞かない僕を見かねたのか男の人は僕にそう問いかけた。ほんの少し思考を重ねてはみたものの、何一つとして質問が思い浮かばない。沈黙が、それを現していた。
「……今は特に、無いです」
「そうかい? 聞きたいことがあったらいつでも言うといい。答えられるものなら、だけどね」
にこやかに話しを続ける男の人が次に提示した言葉は、紙に書いてあることを指差しながらの非常に分かりやすい説明だった。
ここはいわゆるホテルのようなもので、とある条件のもと訪れることができ、僕はその条件を満たしたという事。滞在期間が一週間というのは、ここに泊まれる期間が一週間だというだけで、それより早く出ていくことも出来るが、それには条件が必要だということ。記憶がないのはここに来る時に起こる一種の現象のようなもので、全員が必ずしもそうなるわけではないということ。
「……こんな感じだ。少しは分かったかな?」
「う、うん……ありがとうございます……」
「いやいや、これも仕事というだけさ」
話が一段落したところで、僕はここに来てはじめて疑問が浮かんだ。解らないことがあったら何でも聞いていいって言っていたけど、本当に聞いても良いのかという少しの不安を抱えながらも、僕は聞いてみる事にした。そうじゃないと、話をするにはどうもやりにくかったのだ。
「あ、あの……。ひとつ質問があって……」
「なんだい?」
「その……。あなたの名前、僕知らないままだなって思って……」
「そうだったかな? だとしたら失礼なことをしたね。だが生憎、ワタシは名前というものを持ち合わせていないんだ。支配人とでも呼んでくれたまえ」
「支配人……」
名前がないっていうのは、僕の記憶がないっていうのとは少し違うのだろう。名前の分からない支配人さんが再び口を動かした。
「さて、キミの名前についてだが……少しだけ待っていてくれたまえ」
支配人さんは、さっきのカウンターに足を運ぶ。裏にある引き出しか何かを漁っているらしい。男の人が戻ってくるまで、僕はさっき説明してもらった紙の内容でも見ようと思い手をのばそうとした。その時だ。
「あ、もう来ちゃったんですね」
その声は支配人さんの声ではなく、僕が聞いたことのない軽快な声。それの音がした方向に顔を向けると、この場所に来てふたり目の男の人の姿がそこにはあった。
◇
「……キミ、今日は客人が来るから、ちゃんと受付に居なさいとあれ程言っただろう?」
その誰かの声を聞き取ったらしい支配人さんは、少し呆れ気味にこっちに視線を向けている。さっきとはうって変わって、眉間にしわが寄っているのがよく分かった。
「だから戻ってきたじゃないですか。そしたら既に居るんですもの、驚きですよー」
「別にキミの言い訳はどうでもいいが、それより名簿は……」
言葉を止めた支配人さんの視線の先は、さっき来た男の人が手に待っている本のようなものだ。かなり分厚く、見た目からして重量がありそうにも見える。
「……キミね、名簿を持ち歩るくなと何度言ったら分かるんだ?」
「いやだから、来るかなーと思って待ってたんですよ。でもいつまで経っても来ないし、掃除士さんはまた何処かで油売ってるし。私も暇だからフラフラしようと思ったんですけど、かと言って、名簿を置いて行く訳にはいかないじゃないですかあ」
「相変わらずよく喋るね……。なんでもいいから、早くそれを見せてくれたまえ」
「はいはーい」
そう口にすると、名簿を持っている男の人は僕のいる方へと足を進める。支配人さんもこちらに戻ってくるのを見るに、どうやら僕に関係しているようだが、それにしても同時に向かわれると少し緊張が走ってしまう。
歩きながら分厚いそれを捲り、何かを探している。パラパラとした音だけが辺りを走った。
「……ああ、これですね」
探しているものが見つかった、というように男の人が声をあげる。その名簿の中身が、僕にも見えるように机へと置かれた。名簿というより、何故か僕の写真が貼ってあったりとなんだか履歴書にも近いようにも見えた。支配人さんが、開かれたページのとある場所を指差す。その先には、誰かの名前らしいものが書かれていた。
「ここに書いてあるのが、キミの名前だ」
「相、あい……?」
「相谷 光希(あいたに こうき)。それがキミの名前だよ」
「あいたに……」
「……聞き覚えはあるかい?」
相谷 光希。それが僕の名前らしいが、記憶がない今の僕にはまだピンと来ていない。ということは、その隣にある写真は僕のものなのだろうけど、イマイチぴんと来なかった。しいて言うのなら、なんとなく聞いたことがあるようなそんな気がするという曖昧なものだけで、支配人さんの問いに僕は首を傾げることくらいしか出来なかった。
その様子を見た支配人さんは、「そうか」とだけ口にする。自分の名前すら思い出せないという事実が、僕は本当に僕なのだろうかという疑問を如実に表しているようで、少し薄気味が悪い。ここに来る時に起こる現象だから、なんていうことで割り切るのはどうやら難しいようだ。
「……さて、これで準備は整ったね。部屋の場所を案内するのは、そこにいる彼の役目だから、あとは任せたよ」
「はいはーいっと。ということで宜しくどうぞ。私は案内人とでも呼んでください」
自身を案内人と呼ぶ男の人は、僕と目が合うと笑顔を向けてくれる。軽快な声と笑った顔が似合う人、というのが僕の第一印象だった。
「……よ、宜しくお願いします」
「ご丁寧にどうも。じゃ、早速行きますか」
案内人さんに促されるままその場を後にしようと立とうとした時、支配人さんが僕に声をかけた。
「……ああそうだ。相谷クン、キミの到着を待ちかねている人物が何人かいるから、部屋についた後にでも会いに行ってみてはどうかな。彼らはキミと同じ階の部屋にいるはずだよ」
「あ、ありがとうございます……。支配人さん」
「礼はいらないさ。では、どうか素敵な一週間を」
支配人さんがハットを手に取り、深々と僕にお辞儀をする。定型文なのだろうが、僕はそれにつられぎこちなくお辞儀をした後すぐに背を向けた。
少し気になったのは、僕の知っているひとがここにいるということだ。その人たちに会ったら、僕がどんな人だったのかというのも、もしかしたら分かるかもしれない。そんなことを思いながら、その場を後にした。
◇
「貴方の部屋は二階なので、ちょっと面倒ですけどそこの階段で行きましょうか」
受付傍にある階段を早々に上る案内人さんを前に、僕は急いで後を追う。上り終えたその先には、ひとつに扉がそびえたっていた。一見重そうなそれを案内人さんが簡単に開け、「こっちです」と案内人さんはそう言って一度僕を視界に捉えて扉を抜ける。それに倣って僕も足を勧めた。すると、左側にはまた別の簡素な扉が並んでいるのがよく分かった。それがどうやら僕らに割り振られている部屋のようで、扉にかかっているプレートには、順に『120』『121』……と書いてあった。
「えーっと……? あ、相谷さんの部屋は127号室ですね」
果たしていくつまであるのか分からないけど、廊下は広くて長い。僕たちが来た右側の部屋が120号室から始まっているってことは最低でも130はあるのだろうけど、もっとあるんじゃないだろうかと思ってしまう。124号室を抜けたその時、ガチャリと無機質な音が後ろから聞こえてくる。僕は、気付けば後ろを振り向いていた。
僕の視線の先には、モップとパケツを持った男の人がいる。その人もまた、こちらを視界に入れているらしい。
「あ、掃除士さーん。今日も掃除ですか?」
「……どうも」
掃除士。そう呼ばれた人は、聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声で一言だけ口にした。
「127号室の相谷さん。今日から一週間だそうですから、覚えておいてくださいね」
「え、えーっと……宜しくお願いします」
僕は、かなりぎこちない挨拶を掃除士さんにむける。掃除士さんはその様子をじっと見た後、小さなお辞儀をして僕たちとは反対方向へと去っていった。
「あの人、いつもあんな感じなので気にしないで下さいね」
掃除士さんということは、ここのお掃除担当の人なのだろう。この後一体どこに向かうのか気になりはしたものの、それ以上の詮索をすることはなく、再び歩みを進めた。と言っても、足を止めることになるのはすぐのことだった。
「ここですね。相谷さんの部屋は」
そう口にして、案内人さんが足を止めた。視線の先にある扉の番号は、『127』だ。どうやら早々に僕の部屋に辿り着いてしまったらしい。
案内人さんは首から下げている鍵を手に取り、当たり前のように鍵を開ける。一つしか持っていないようだけれど、どれもこの鍵で開くのだろうか? そんな思いを持ってしまったからなのか、ガチャリという鍵の開く音によって現実へと戻されたような気がした。「どうぞ」と促されるまま先に部屋の中に入る。そして、僕はとても驚いた。
「青……?」
だってその部屋は、今までの白い空間とは比べ物にならないくらいに壁や家具など全てのモノが薄い青のような色で溢れていたからだ。
「秘色(ひそく)、聞いたことないですか?」
「ひそく……?」
「簡単に言うと、浅い緑ってところですかね。見た目は青に近いですけど」
どうやら、この色は秘色というものらしい。聞いたことのない色の名前だけれど、それは僕の記憶がないからなのか、それとも世間一般的に聞きなじみのないものなのか、その判断をするのは少し難しかった。
「この部屋の色は、貴方の人生そのものなんですよ。まあ、だからといってどうという訳でもないですけど」
「人生……?」
部屋の色が僕の人生、というのは一体どういう意味なのかよく分からないけれど、確かに神秘的な色をしていてとても綺麗に感じる。そう思うのは、もしかしたらこれが本当に自分の人生に基づいた色だから、なのかもしれない。
「……じゃあ、私はこれで。何かありましたら、さっきの受付まで来ていただくか、そこら辺を彷徨いている掃除士さんでも捕まえてください」
「あ、えっと……案内してくれてありがとうございました」
この色についてもう少し詳しく聞きたかったのだけれど、案内人さんは早々と話を切り上げてしまい聞くタイミングがなくなってしまう。案内人さんはにこっと微笑んだ後、「では」と言いながら部屋を後にした。バタン、と扉が音を立てて閉まった途端に突然訪れたかのような静寂に不安に似た何かを抱きながら、僕は今までとは違う色で染められたこの部屋を何をするでもなくじっと眺めていた。
秘色という色と、案内人さんが言っていた「この部屋は僕の人生そのもの」という言葉。それがどうにも引っかかって仕方がない。だって、どうしてこの部屋はこんな色をしているのかなんて、記憶のない今の僕がどんなに考えても分かる訳がないからだ。記憶が戻ったら、僕がここにいる意味も、この色の意味も分かるのかも知れない。確かに、これがどういう意味を持つのかはとても気になる。気にはなるけど、そんな気持ちとは裏腹に、どうしてかそれとは少し違う感情に苛まれる。
思い出したいという気持ちよりも、思い出さない方がいいんじゃないか? なんていう気持ちの方が不思議と遥かに大きかったが、だからといってそれに対して疑問を持つことはしなかった。
でも、もしそれら全てを把握出来たとしたらどうだろうか? 視界に入るモノ全てが鮮やかに映り、毎分毎秒新鮮な気持ちで物事を把握出来るのかも知れないが、情報量が多すぎて煩わしくなってしまうかも知れない。
それなら僕は、視えないほうが断然マシだと思ってしまう。
自分の知りたいと思う情報以外の存在は、知る必要なんてない。そのはずだ。
僕は重くのしかかる瞼を動かす。何か、嫌なモノが視界に入らなければいいなと思いながら、ゆっくりと目を開ける。僕の目に映ったそれらに、僕はたちまち首を傾げた。
「……あれ?」
辺り一面に広がっていた真っ白な空間に、僕は目を丸くした。
◇
目の前に広がる、何色にも染まることをしない白という存在に包まれた空間が、どうしてか知らない間に僕の周りを取り巻いていたらしい。
辺り一面が白で埋め尽くされた世界で、僕は何をするでもなくその場に立ち尽くしている。今、一体どういう状況に自分が置かれているのか、それを自分の中で解決するには、余りにも情報が少な過ぎる景色だった。
「……ここ、どこだろう」
今までいたであろ世界とは明らかに違うと分かるその場所に、当然ながら疑問を展開した。どうして僕は、こんな何もないところにいるのだろう。どう見ても非現実的なこの状況は、実は夢だったりするのだろうか? 静寂に呑まれたこの空間の中、僕しかいないはずなのに、何かが蠢いている気がするのは恐らくは気のせいだと思いたい。僅かながらに取り戻した思考のせいで、余り考えたくないことまで考えてしまう。いるはずのない何か、認識してはいけないようなモノがすぐ側にいるような気がして、僕は思わず息を呑んだ。
しかしそれは正しく、ここに長居してはいけないと本能的な部分からの警告のようで、思わず辺りを見回した。ここに居続けてしまったら、僕はもう戻れないんじゃないだろうか。この白一色の景色が視界に入る度に、そう思ってしまう。
僕は、何かに駆られるようにして自然と足を動かした。遠くに見える地平線のようなものと、その地平線へと向かうようにして地面に書かれている、等間隔の細長い線のお陰で、地面の在処だけは分かるのが救いだった。知らない場所をひとりで歩くというのはかなりの不安要素ではあるけれど、少し歩けば何かあるかも知れない。今は目に見えないだけで、何かがあるかも知れない。そんな微かな期待は、僕を動かすのには十分だった。
目的地があるわけでは当然無く、とりあえず自分が向いていた方へと歩き出す。タイルを踏みしめるような擦れた音が僅かに聞こえてくるのが、僕が動いているということの証ではあったけれど、それ以外は特に何もなかった。歩いても歩いても、見えるのは白。この、僕だけが色づいているというのがおかしいんじゃないかと思える程のこの空間に、普通なら自然と焦りと共に恐怖に似た何かを覚えるのかも知れない。
不安というものは確かにある。でも、それとこれとは話が別で、僕は至って冷静だった。
「……何もないな」
何もないただの白い空間。これがいつか、色を持つ僕を白く染め上げてしまうのではないか。そう思ってしまったばっかりか、僕の足は自然と止まっていた。
「……ここに来る前、何してたっけ」
この言葉は、決して今置かれている状況に混乱しているから出たものではない。いざ考えようとすると、何にも出てこない。まるで僕のどこかに穴が開いてしまったかのように、僕の記憶がどこかに落ちてなくなってしまった。そんな感覚だった。
この白という何にも染まっていない色が、まるで今の僕の空っぽな状態を表しているかのような気さえしてしまう。それくらい、今の僕には自分が何者なのかを示せる記憶というものが、何一つ残っていない。それは、自分の名前も例外ではなかった。
視線が、思わず地面に落ちるた。恐らくは今までにないくらいの落胆だった。考える力があるのだから完全に記憶がないというわけではないのだろう。しかし、ここに来る前に何をしていたのかも分からないというのは、些か不気味と呼ぶにふさわしい。
人間というのは単純なもので、そう思ってしまえば他のことなんて考えられなくなってしまう。何をするでもなくその場に立ち尽くしていると、何か、何処か遠くのほうから音が反響するのが分かった。それが人の足音だと分かるよりも早く、僕は既にその音の方向に視線を向けていた。少しずつ近づいてくるそれの正体が分かるのには、ほんの少しだけ時間が必要だった。
それは思いのほか近く、その何かが目の前まで来るのにはそう時間はかからない。それまでの間、僕は近づいてくるそれをずっと見ていることしか出来ないでいた。残り数歩といったところだろうか。そこまで近づかれても尚、僕はなにか行動を起こすということをしなかった。
目の前にまで来た優しく微笑むとある存在は、僕に向かってこう口にする。
『やあ、探したよ。見つかって良かった』
黒いスーツに身を包み、ハットを被ったひとりの男の人。年齢は四十代くらいだろうか?
『迷っているのかな?』
そう問われた僕は、特に不信感を抱くこともなく当たり前のように口を動かす。
「どこも真っ白だから、どうしたらいいか分からなくて……」
『そうなんだよねぇ……。殆どのニンゲンが、ここで途方に暮れるんだ。ワタシが見つけられなかったら消えてしまうというのに』
本当に困ったよ。そう言いながらため息を溢す男の人だが、どうも言っている意味が理解しがたい。ここで途方に暮れる? 消えてしまう? 途方に暮れるというのは確かにそうだけれど、それなら僕以外の誰かもここに来たことがあるのだろうか? それに、消えてしまうというのが一番気がかりだった。
疑問を隠せない僕の表情に気付いたのか、男の人は僕に向かってさっきと同じような笑みを浮かべた。
『……それはそうと、キミはここに来る前のことを何か覚えているかな?』
その言葉に、僕は内心ドキリとした。特別悪いことなんてしていないはずなのに、僅かに目を伏せてしまう。
「いや、何も……」
『そうか……ああいや、そのことだったら気にしなくて大丈夫さ。よくあるんだ』
「よく……?」
『ああ、まあ……わりと、かな? それより、ここは余り長居するところでもないから、場所を移動しようか』
僕の疑問を曖昧にかわした男の人は、胸ポケットに刺さっているひとつのペンを取り出す。おもむろにキャップを外し、本来なら到底書くことの出来ない空中に、なんと線のようなものを書き始めた。今まで何も無かったただの白い空間に、彼が書いたのであろう小さな長方形が浮かび上がっていく。
驚嘆したままただ眺めているだけの僕をよそに、男の人が空中に書かれたそれに触れると、徐々にモノとして形成していくのがよく分かった。それが一体何を形作ろうとしているのかが分かった時、僕は目を丸くした。
そこに現れたのは、ひとつの大きな扉。ただの黒い線で出来た長方形ではなく、まるで最初からそこに存在していたかのように、何処かへと繋がる扉としてそこに現れたのだ。さながら、それはまるでマジック……いや魔法のようで、今自分が置かれている状況を忘れてしまう程に心躍ってしまうのが分かる。
そんな僕のことなんて気付いていないかのようにして、男の人は一貫して笑みを溢していた。
『さあ、コチラへどうぞ。……お客様?』
その言葉が終わったと同時に開かれた扉。その扉の先は、先が何も視えない程にとても眩しく、思わず片目をつぶり手で覆ってしまう程だ。僕は僅かに後ろに仰け反りながらも、まるで何かに導かれるかのように足を運んでいく。はじめて会った男の人の言うことを疑うということはしなかったのか? この先にあるものの不安とかちゃんと考えなかったのか? そんな声が傍から聞こえてきそうな程に、僕の行動は自然だった。どうしてこう、導かれるまま足を進めてしまったのか。そんなことを聞かれても、ちゃんとした答えを出すことは恐らく出来ない。これが例えば、記憶をちゃんと持っていたとしてもだ。
ただ単に、僕はその先に行かなければならなかった。そんな曖昧な確信が、僕の足を動かした。ただそれだけのこと。
僕は、ほんの一瞬だけ今までいた白い空間を横目に入れる。どうしてか名残惜しいだなんていう感情が僕の中に生まれてしまっていたことに、この時の僕は多分気付いていない。
――彼らが扉に足を運び終えると、扉は彩られた光と共に跡形もなく消えてしまう。その突如現れた扉にはとある文言が書かれているプレートがぶら下がっていたのだが、きっと、それを見る余裕なんてあの時の彼には無いに等しかったのだろう。
誰もいなくなった空間に、カタリと何かが地面に落ちた音がする。その犯人は、扉に吊るされていたプレート。
そのプレートには、『time out』という文字が書かれていた。
◇
その光は、誰もが思っているよりも優しく、かつ鮮明に僕のことを捉えていた。それくらいに眩しく感じた光が段々と落ち着いてくるのが、まぶた越しでも伝わってくる。それを合図に、僕は恐る恐る覆っていた手を視界から外した。
右からゆっくりと瞼を上げ、まるで迷子の子供のように辺りを見回してしまう。相変わらず白い空間がそこにはあったが、さっきと決定的に違うのは、ちゃんとモノが何処にあるのかというのが認識出来るということだ。左右に対称的に存在している階段とテーブルとソファー。さらに、僕の目の前には誰もいないカウンターのようなものがポツンと置いてあるだけだった。
「……また誰もいないのか。困ったものだね」
ともなくして後ろから聞こえてきた聞き覚えのある男性の声によると、どうやら本来ならここに誰かがいるらしいけれど、今は何処かに行ってしまっているらしい。その結果、白いカウンターだけが僕を迎え入れることとなったようだ。
「すまないね、キミを迎える人物がいなくて。まあ、何処かで彼らにも出会えるだろうから、自己紹介はその時にでもさせるとするよ。ああ、安心してくれ。キミの名前はちゃんと控えてあるからね。少し落ち着いてからにしよう」
カウンターの横に並べられているソファへと促されるまま、僕はゆっくりと腰をかけた。向かいに座った男の人が取り出したのは、とある一枚の紙。少し見ただけでもその紙には難しいことが書いてあるというのがよく分かるくらいに、一言一句定型文のようなものが羅列されていた。
「簡単に説明すると、ここはいわゆるホテルみたいなものだと思ってくれていい。滞在時間は今日を含めて一週間。その一週間でキミが何を思うのか、キミが良ければ是非教えて欲しいものだね」
「ホテル……?」
確かに、言われてみればホテルという言葉がしっくりくるかも知れない。真っ白な受付のようなカウンター。それに、今僕が座っている待合所のような場所。色があったら、もっと分かりやすくホテルだと認識できたのだろうか。
「質問があったらいつでも聞くよ」
ここまでの流れの中、特別なにも聞かない僕を見かねたのか男の人は僕にそう問いかけた。ほんの少し思考を重ねてはみたものの、何一つとして質問が思い浮かばない。沈黙が、それを現していた。
「……今は特に、無いです」
「そうかい? 聞きたいことがあったらいつでも言うといい。答えられるものなら、だけどね」
にこやかに話しを続ける男の人が次に提示した言葉は、紙に書いてあることを指差しながらの非常に分かりやすい説明だった。
ここはいわゆるホテルのようなもので、とある条件のもと訪れることができ、僕はその条件を満たしたという事。滞在期間が一週間というのは、ここに泊まれる期間が一週間だというだけで、それより早く出ていくことも出来るが、それには条件が必要だということ。記憶がないのはここに来る時に起こる一種の現象のようなもので、全員が必ずしもそうなるわけではないということ。
「……こんな感じだ。少しは分かったかな?」
「う、うん……ありがとうございます……」
「いやいや、これも仕事というだけさ」
話が一段落したところで、僕はここに来てはじめて疑問が浮かんだ。解らないことがあったら何でも聞いていいって言っていたけど、本当に聞いても良いのかという少しの不安を抱えながらも、僕は聞いてみる事にした。そうじゃないと、話をするにはどうもやりにくかったのだ。
「あ、あの……。ひとつ質問があって……」
「なんだい?」
「その……。あなたの名前、僕知らないままだなって思って……」
「そうだったかな? だとしたら失礼なことをしたね。だが生憎、ワタシは名前というものを持ち合わせていないんだ。支配人とでも呼んでくれたまえ」
「支配人……」
名前がないっていうのは、僕の記憶がないっていうのとは少し違うのだろう。名前の分からない支配人さんが再び口を動かした。
「さて、キミの名前についてだが……少しだけ待っていてくれたまえ」
支配人さんは、さっきのカウンターに足を運ぶ。裏にある引き出しか何かを漁っているらしい。男の人が戻ってくるまで、僕はさっき説明してもらった紙の内容でも見ようと思い手をのばそうとした。その時だ。
「あ、もう来ちゃったんですね」
その声は支配人さんの声ではなく、僕が聞いたことのない軽快な声。それの音がした方向に顔を向けると、この場所に来てふたり目の男の人の姿がそこにはあった。
◇
「……キミ、今日は客人が来るから、ちゃんと受付に居なさいとあれ程言っただろう?」
その誰かの声を聞き取ったらしい支配人さんは、少し呆れ気味にこっちに視線を向けている。さっきとはうって変わって、眉間にしわが寄っているのがよく分かった。
「だから戻ってきたじゃないですか。そしたら既に居るんですもの、驚きですよー」
「別にキミの言い訳はどうでもいいが、それより名簿は……」
言葉を止めた支配人さんの視線の先は、さっき来た男の人が手に待っている本のようなものだ。かなり分厚く、見た目からして重量がありそうにも見える。
「……キミね、名簿を持ち歩るくなと何度言ったら分かるんだ?」
「いやだから、来るかなーと思って待ってたんですよ。でもいつまで経っても来ないし、掃除士さんはまた何処かで油売ってるし。私も暇だからフラフラしようと思ったんですけど、かと言って、名簿を置いて行く訳にはいかないじゃないですかあ」
「相変わらずよく喋るね……。なんでもいいから、早くそれを見せてくれたまえ」
「はいはーい」
そう口にすると、名簿を持っている男の人は僕のいる方へと足を進める。支配人さんもこちらに戻ってくるのを見るに、どうやら僕に関係しているようだが、それにしても同時に向かわれると少し緊張が走ってしまう。
歩きながら分厚いそれを捲り、何かを探している。パラパラとした音だけが辺りを走った。
「……ああ、これですね」
探しているものが見つかった、というように男の人が声をあげる。その名簿の中身が、僕にも見えるように机へと置かれた。名簿というより、何故か僕の写真が貼ってあったりとなんだか履歴書にも近いようにも見えた。支配人さんが、開かれたページのとある場所を指差す。その先には、誰かの名前らしいものが書かれていた。
「ここに書いてあるのが、キミの名前だ」
「相、あい……?」
「相谷 光希(あいたに こうき)。それがキミの名前だよ」
「あいたに……」
「……聞き覚えはあるかい?」
相谷 光希。それが僕の名前らしいが、記憶がない今の僕にはまだピンと来ていない。ということは、その隣にある写真は僕のものなのだろうけど、イマイチぴんと来なかった。しいて言うのなら、なんとなく聞いたことがあるようなそんな気がするという曖昧なものだけで、支配人さんの問いに僕は首を傾げることくらいしか出来なかった。
その様子を見た支配人さんは、「そうか」とだけ口にする。自分の名前すら思い出せないという事実が、僕は本当に僕なのだろうかという疑問を如実に表しているようで、少し薄気味が悪い。ここに来る時に起こる現象だから、なんていうことで割り切るのはどうやら難しいようだ。
「……さて、これで準備は整ったね。部屋の場所を案内するのは、そこにいる彼の役目だから、あとは任せたよ」
「はいはーいっと。ということで宜しくどうぞ。私は案内人とでも呼んでください」
自身を案内人と呼ぶ男の人は、僕と目が合うと笑顔を向けてくれる。軽快な声と笑った顔が似合う人、というのが僕の第一印象だった。
「……よ、宜しくお願いします」
「ご丁寧にどうも。じゃ、早速行きますか」
案内人さんに促されるままその場を後にしようと立とうとした時、支配人さんが僕に声をかけた。
「……ああそうだ。相谷クン、キミの到着を待ちかねている人物が何人かいるから、部屋についた後にでも会いに行ってみてはどうかな。彼らはキミと同じ階の部屋にいるはずだよ」
「あ、ありがとうございます……。支配人さん」
「礼はいらないさ。では、どうか素敵な一週間を」
支配人さんがハットを手に取り、深々と僕にお辞儀をする。定型文なのだろうが、僕はそれにつられぎこちなくお辞儀をした後すぐに背を向けた。
少し気になったのは、僕の知っているひとがここにいるということだ。その人たちに会ったら、僕がどんな人だったのかというのも、もしかしたら分かるかもしれない。そんなことを思いながら、その場を後にした。
◇
「貴方の部屋は二階なので、ちょっと面倒ですけどそこの階段で行きましょうか」
受付傍にある階段を早々に上る案内人さんを前に、僕は急いで後を追う。上り終えたその先には、ひとつに扉がそびえたっていた。一見重そうなそれを案内人さんが簡単に開け、「こっちです」と案内人さんはそう言って一度僕を視界に捉えて扉を抜ける。それに倣って僕も足を勧めた。すると、左側にはまた別の簡素な扉が並んでいるのがよく分かった。それがどうやら僕らに割り振られている部屋のようで、扉にかかっているプレートには、順に『120』『121』……と書いてあった。
「えーっと……? あ、相谷さんの部屋は127号室ですね」
果たしていくつまであるのか分からないけど、廊下は広くて長い。僕たちが来た右側の部屋が120号室から始まっているってことは最低でも130はあるのだろうけど、もっとあるんじゃないだろうかと思ってしまう。124号室を抜けたその時、ガチャリと無機質な音が後ろから聞こえてくる。僕は、気付けば後ろを振り向いていた。
僕の視線の先には、モップとパケツを持った男の人がいる。その人もまた、こちらを視界に入れているらしい。
「あ、掃除士さーん。今日も掃除ですか?」
「……どうも」
掃除士。そう呼ばれた人は、聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声で一言だけ口にした。
「127号室の相谷さん。今日から一週間だそうですから、覚えておいてくださいね」
「え、えーっと……宜しくお願いします」
僕は、かなりぎこちない挨拶を掃除士さんにむける。掃除士さんはその様子をじっと見た後、小さなお辞儀をして僕たちとは反対方向へと去っていった。
「あの人、いつもあんな感じなので気にしないで下さいね」
掃除士さんということは、ここのお掃除担当の人なのだろう。この後一体どこに向かうのか気になりはしたものの、それ以上の詮索をすることはなく、再び歩みを進めた。と言っても、足を止めることになるのはすぐのことだった。
「ここですね。相谷さんの部屋は」
そう口にして、案内人さんが足を止めた。視線の先にある扉の番号は、『127』だ。どうやら早々に僕の部屋に辿り着いてしまったらしい。
案内人さんは首から下げている鍵を手に取り、当たり前のように鍵を開ける。一つしか持っていないようだけれど、どれもこの鍵で開くのだろうか? そんな思いを持ってしまったからなのか、ガチャリという鍵の開く音によって現実へと戻されたような気がした。「どうぞ」と促されるまま先に部屋の中に入る。そして、僕はとても驚いた。
「青……?」
だってその部屋は、今までの白い空間とは比べ物にならないくらいに壁や家具など全てのモノが薄い青のような色で溢れていたからだ。
「秘色(ひそく)、聞いたことないですか?」
「ひそく……?」
「簡単に言うと、浅い緑ってところですかね。見た目は青に近いですけど」
どうやら、この色は秘色というものらしい。聞いたことのない色の名前だけれど、それは僕の記憶がないからなのか、それとも世間一般的に聞きなじみのないものなのか、その判断をするのは少し難しかった。
「この部屋の色は、貴方の人生そのものなんですよ。まあ、だからといってどうという訳でもないですけど」
「人生……?」
部屋の色が僕の人生、というのは一体どういう意味なのかよく分からないけれど、確かに神秘的な色をしていてとても綺麗に感じる。そう思うのは、もしかしたらこれが本当に自分の人生に基づいた色だから、なのかもしれない。
「……じゃあ、私はこれで。何かありましたら、さっきの受付まで来ていただくか、そこら辺を彷徨いている掃除士さんでも捕まえてください」
「あ、えっと……案内してくれてありがとうございました」
この色についてもう少し詳しく聞きたかったのだけれど、案内人さんは早々と話を切り上げてしまい聞くタイミングがなくなってしまう。案内人さんはにこっと微笑んだ後、「では」と言いながら部屋を後にした。バタン、と扉が音を立てて閉まった途端に突然訪れたかのような静寂に不安に似た何かを抱きながら、僕は今までとは違う色で染められたこの部屋を何をするでもなくじっと眺めていた。
秘色という色と、案内人さんが言っていた「この部屋は僕の人生そのもの」という言葉。それがどうにも引っかかって仕方がない。だって、どうしてこの部屋はこんな色をしているのかなんて、記憶のない今の僕がどんなに考えても分かる訳がないからだ。記憶が戻ったら、僕がここにいる意味も、この色の意味も分かるのかも知れない。確かに、これがどういう意味を持つのかはとても気になる。気にはなるけど、そんな気持ちとは裏腹に、どうしてかそれとは少し違う感情に苛まれる。
思い出したいという気持ちよりも、思い出さない方がいいんじゃないか? なんていう気持ちの方が不思議と遥かに大きかったが、だからといってそれに対して疑問を持つことはしなかった。