05:あっけなく、さようなら


2025-09-25 14:26:40
文字サイズ
文字組
フォントゴシック体明朝体
 ――電車の中は、雑音だらけだ。そろそろ深夜へと近づいてくる時間ということもあり、人はそれなりにいるものの、満員電車というわけでもなければ騒いでいる人は勿論居ない。たまに酔っ払いが周りに誰もいないのに喋っていたりはするのだが、今回は残念なことに見ることはできなかった。
 電車の動く音に合わせて鳴る機械的な音は、今の僕にとっては非常に不愉快なものとして耳に入っていた。考え事をするには少々邪魔だ。家から遠い場所にあるバイト先をわざわざ選んでいたこともあり、帰りとなるとそれは特に煩わしく、余計に疲れる要因の一つであるに違いなかった。いい加減家の近くでバイトを探してもいい頃合いだが、それはまた後で考えることにする。
 僕が考えることといえば、大学の課題についてか読んでいない小説をのうちどれを読むかについてか、帰ってご飯はどうしようかということくらいのものだが、今日はどうもそういう気分ではなかった。
 今どうしても考えてしまうのは、幽霊というモノについてである。僕にとって、幽霊などの一般的には視えないとされている存在は非常に煩わしいものであるに違いないのだが、普段はそれに気付かないように生活をしている。
 勝手に目に入ってくるだけのくせして、なんで僕が幽霊に気を使わなければいけないのかと不服ではあるけれど、これが一番最適な方法だ。だが、物音や何かの気配というのはどうしてもついてくるものであり、それら全てを無視するというのはとても難しい。
 そして今回の場合、中野くんが僕の後ろにとあるそれがついて歩いていると言ったのがきっかけで、それらがとても目につくようになってしまった。これに関しては、決して中野くんが悪いというわけではない。ただ、少しくらい文句を言いたくはなる。言わないけれど。
 自分につきまとっている存在というのは、得てして自分では中々気付くことが出来ないものだ。だから余計に全貌が分からなくて――というには、少し楽観的過ぎだという自覚はある。

(……確かに、中野くんの言う通りだったかも)

 今回の件で、僕は危機管理能力が余りにも無さすぎるということがよく分かった。それに気付かせてくれた中野くんには感謝しなければならないかもしれない。……しないけど。
 こんなこと、本当は電車の中で考えるものではないということは分かってはいながらも、電車の中で気を紛らわせる方法を、僕はまだ知らないでいた。


 ◇


 電車に揺られて暫く、ようやく最寄りの駅に着き電車を降りる。どうやら今日は、比較的人がいるらしかった。いつもなら別に気にする必要もないけれど、今回ばかりは都合が悪い。まあこればかりは仕方がないと、僕は駅のホームにあるベンチに座る。電車が行くのを見届けて、人が居なくなるの待った。正直言って、時間の無駄であるということは自覚していた。
 電車が行って一分も経たない頃。向かいのホームにはまだ人がおり、早く居なくなってくれないだろうかなどと思い始めているタイミングのこと。

「人でも待ってるの?」

 友達でもないのに話しかけてくるそれは、今回で二回目だ。聞こえてきた声を頼りに仕方なく顔を向けると、この前ここで会った秋山さんがいつの間にか立っていた。一人にして欲しい気持ちもあったが、暇つぶしになるという点を加味すればある意味では有り難かった。

「人を待っているわけではないですね」
「ふうん」秋山さんはつまらなさそうに言った。
「……秋山さんは、電車乗らないんですか?」
「ああ、俺はいいの。見物でもしようと思って来ただけだから」

 見物ということは、見たいものはきっと僕と同じなのだろう。悪趣味だなと一瞬思ったが、言ってしまえば僕も似たようなものだったのを思い出して、すぐに思考から無かったことにする。
 秋山さんはその後、言ったように電車が来ても乗ることはせず、僕と一緒にこの場に留まっていた。僕達がとあるそれを待っている間、特別会話があるわけでもなかった。最初は時間潰しにでもなるだろうかと思っていたが、ただただ時間だけが過ぎていく中、やっぱり一人にして欲しい気持ちが少しだけ上回っていた。
 ――そしてようやく、二十一時三十四分を過ぎた辺りでとある片鱗が姿を見せる。

「あ、そろそろ来る? 俺めっちゃ眠いんだけど」

 ならさっさと帰ればいいのに……と思うだけにしておくが、秋山さんは待っている間とても暇そうにあくびを繰り返していたことも付け加えておく。
 見慣れた黒い点々が、線路の中で揺らめき始めた。少しずつ集まってくるそれが人の形を形成するのに、そう時間はかからなかった。以前ここで起きた状況とほぼ同じと言っていいだろう。今更、特に驚きもなかった。しかし以前と違うのは、それがあの時に比べて余りにも希薄なものであったというところだ。

「念って凄くない? 死んでもそこにあり続けるとか、そこまでして留まりたいもんなのかね」

 秋山さんは「全然分からんわ」と一人で勝手に喋っていた。それに関しては概ね同意だけれど、全く物怖じとしていないどころかただの日常会話をしているような声のトーンで、緊張感はまるでなかった。
本当はこんな状態の、もはや幽霊とも言い難いものに近付きたくなんてないのだが、僕は仕方なく線路近くまで向かう。普段なら危ないと怒られるであろう距離だけれど、それを咎める人物はこの場にはいない。
 とある女性の形をしたそれは、僕が近づくと僅かに形が崩れた。こうしてまじまじ見ると、余りにも現実離れしていて見れたものではないなあと、のんきなことを思ってしまう。

「電車に乗ってる時、少しだけ考えてみたんです。どれが人でどれが幽霊だったのかなあって」

 一般的に見て、誰もいない虚空に僕はそう言った。

「貴女が僕のあとをつけているって中野くんが言ってたのが今から一週間前で、貴女が亡くなったのが三日前だから、あの時はまだ生きていたということだと思うんですけど……。変な話、幽霊が日常生活になじみ過ぎてて、どれが貴女の仕業でどれがそうじゃないのかがよく分からないんですよね」

 時系列で言うなら、中野くんが「僕のことをつけ回っている何かがいる」と言った時には、この人はまだちゃんとした人間だったのだろう。それか、生きている人間の念……つまり生き霊という可能性もあるにはある。果たしてどっちだったのかの判断は、今の僕にはもう出来ない。
 確かに僕は幽霊が視える。それは確かなのだが、そこにいるのが幽霊なのか人間なのかが分からなくなることが良くあるのだ。
 幽霊にも色々あって、例えば透けていたり明らかな欠損があったり、季節にそぐわない服を着ているなどがあれば嫌でも分かる。しかし、普通に生きている人間と遜色のない幽霊が混じっていることがかなりの確率であり、それが度々僕を悩ませる要因となっている。そこに生き霊なんてものが混じっていようものなら、より違いが分からない。かなり凝視すれば違いも分かるのだけれど、道端で毎回そんなことはしていられない。あの時もそうだった。
 僕が思うに中野くんも幽霊が視えるタイプだと思うのだが、よく考えれば中野くんとこの話になったとき、しきりに家が荒らされていないか心配していた。幽霊相手にしては警戒心を煽り過ぎじゃないかと思っていたのだが、あの時は本当に人間だったのだと思えば納得感がある。今更分かったところでどうしようもないけれど。

「一個聞いていい?」何か引っかかることがあったらしく、秋山さんが僕の独り言に異を唱える。
「なんですか?」
「つまり、原くんのストーカーだった人がここで死んだってことであってる?」
「本当にストーカーだったのかは分かりませんけど、そういうことになるかもしれないですね」

 中野くんに言うと怒られそうだが、後をつけられていると指摘されるよりも少し前、実はこの人のことは街でよく見かけていた。
 この駅のホームでも何度か見かけたことがあるし、中野くんが出てきた文房具屋に、つい最近この人が店員として雇われたということも知っている。だからといって別に知り合いではないというのも事実で、しかしこの人が雇われてからというもの、その文房具屋には一切足を運んでいないというのも事実だ。流石に気味が悪かったのだ。
 それ以上のことは何も知らないと言えれば、ストーカーではなく偶然だろうとまだ言えたのかもしれない。でも本当のところは家近くのスーパーですれ違った時もあるし、僕の家の前で立っているのも見たことがある。つまり僕は、この人が僕のあとをつけていることをちゃんと知っていながら、知らないフリをしていたのだ。
 中野くんに後をつけられていると言われたとき、「実は前から知っていた」と言ってしまえば良かったのかもしれないが……。それを言うのは簡単だが、だからといって簡単に肯定してしまうのも気が引けた。幽霊であれという願望もあった。これだけの状況が揃っていながら、単純に近所に住んでいるだけかもしれないという僅かな可能性が、僕の口を阻んだ。
 秋山さんは「ああ、だから向こうがそういう感じなのか」と何か納得した様子を見せる。そういえばここで秋山さんに会った時、これに相当好かれているとか何とか言っていた。その理由が今ようやく分かったといったところだろう。だけど、それでも秋山さんの疑問は尽きないらしい。

「いまいちよく分からないんだけど、原くんはなんでわざわざこれに会いに来たの? 普通に嫌じゃない?」

 駅のホームに、回送の電車が来る旨のアナウンスが響く中、秋山さんにそう問われた僕は少し悩んだ。確かに、僕が今こうしてこの存在に会いに来ているというのは、非常に不自然に映っているだろう。この人はここから動くことは無いようだし、別にこのまま放っておいて勝手に消えたところで僕には関係ないことだ。ストーカーと思われる人物がここで幽霊になっていると知って気になった。と、適当に言えばそれで済む話ではあるのだが……。
 冬の冷え込む風が、顔をかすめる。それに任せて、僅かに形作られている幽体が薄気味悪く波打った。何かを訴えるように動くそれを見て、自分の気持ちを繕う努力をするのが途端に馬鹿らしくなった。なんで人に不快感を与えてきたそれに、僕が気を使わなければならないのか、理解に苦しんだ。

「どうせなら、見てみようかなあと思って。幽霊が消える瞬間っていうのを」

 ――刹那、電車が線路を轢く音が耳をつんざいた。風が僕の体に当たり、僅かに黒く淀んだ粒が空に舞った。
 電車が定刻通り去った少し後、僕は改めて電車の去った線路を視界に入れる。そこにあるのは当然、何もない通常通りのただの線路だ。但し、僅かに残る幽霊の残り粒を除いては。

「完全に消えた?」

 後ろから、秋山さんが言いながら近づいて来る。僕は別に何も答えなかった。秋山さんは、風に乗ってどこかに消えていくそれをじっと見つめていた。それが、幽体の最後の姿であるに違いない。何ともあっけなく、やっぱり無駄な時間だったと思わずため息をつく。

「わざわざ消えるところを見に来るなんて、顔に似合わず悪趣味だね」
「普段はこんなことしませんよ」
「あ、そう? ならいいけど」

 どうせなら幽霊が消える瞬間を見たいと言ったのは確かに僕だが、秋山さんこそ見物しに来たのだから言われる筋合いはない。というか、僕がストーカーの幽霊が消える瞬間を見に来るというのはまだ分かるが、秋山さんがわざわざここに来る理由は何だったのだろうか?

「原くんって、結構モテるの?」
「そう見えないって言いたいんですね」
「いや、ただ聞いただけだから。別に思ってないからね?」

 実際のところモテた記憶は特にないが(幽霊を勘定に入れて良いなら幾らでもあるが)、秋山さんの聞き方が余りにも悪く思わず反射的に答えてしまった。そんなこと、わざわざ聞かなくてもいいのに。

「幽霊と人と区別がつかないってホント? 俺は結構分かるけど」
「あからさまな幽霊なら分かりますけど、それ以外はよく分からないんですよね」
「はあ~……面倒臭そう」

 秋山さんは僕の答えに同調こそしたものの、どうにも納得がいっていないらしい。僕と秋山さんで、視え方や視えるモノが違ったりするのだろうか?
 一般的によく言われている幽霊の特徴というのは、透けているとか足がないとか、あからさまに怖い姿をしていると言われがちだが、必ずしもそうとは限らない。自分には霊感がないと言う人が、例えば人とすれ違う時にそれが幽霊だと気付かずに普通の人間だと思って避けて通り過ぎるということは、実はよくある話だったりもする。
 ちなみに言うと、家で起きる怪奇現象は大抵が幽霊が起こしているものだ。僕が外を歩いているうちに拾ってしまったそれらが家までついて来ることもあるが(それらが家の中まで入ってくることは余り無いのだが)、大半が僕が来る前から居た幽霊である。
 今僕が住んでいる家は元々兄が住んでいた部屋で、「ここ飽きないからいいよ」とか何とか、よく分からないことを言っていたのをよく覚えている。まあ確かに飽きはしないが、よくもまあこんな部屋に数年住んでいたなと感心してしまう。……そう言いながら、同じ道を辿りそうになってはいるのだが。
 例えば、お風呂を沸かして入ろうとすると誰かが既に入っていることもあるし、クローゼットを開けたら幽霊が居ることもある。ドタドタと走る音が聞こえたりもするし、電気が勝手についたり消えたりする。それくらい、人が思っているよりも色々と起きる。もし仮に家に泥棒が入っても、絶対に気付かないだろうなという要らない自信だけはあった。やかましいなと思うこともあるが、僕が特別関心を示さない限り別にどうということもない。特別害のない幽霊であれば、本来はそんなものだ。

「原くんって、なんか色々と苦労してそうだね。原くんみたいな霊感の持ち主なんてそうそう居ないし」
「苦労ですか? ああ、まあ……」

 そんな問いをかけられ、仕方がないので一応少し考えた。秋山さんが言いたいのは恐らく、日常の些細なことではなく幽霊に酷い目にあわされた経験のことを言っているのだろう。一般的に追わなくていい苦労は確かにあるし、それらを完全に無視することは難しい。幽霊が視えない人が、よく「どうせなら幽霊が視えたらよかった」などと言ったりするが、良くもまあ人の苦労も知らないでそんなことが言えるなと思う。見えないほうが楽であることは明白だ。

「仮にあったとしても、そう易々と言いませんけど」
「はは、それもそうか」

 しかし、残念ながらそれをわざわざ誰かに言ってしまうほど僕はお喋りではない。まあ、秋山さんは幽霊が視える人のようだし、それなりに苦労も分かり合えるのかもしれないが……。

「というか、秋山さんは何しに来たんですか?」
「え? あー、いや、特になにってないんだけど」

 秋山さんは言いたくないのかどうなのか、ややばつが悪そうに目を泳がせながら言葉を続けた。

「駅員に幽霊が出るからどうにかしてくれって頼まれたからしょうがなく来たんだけど、原くんがなんかやりたそうだったから見物してた」
「よくそれで僕のこと悪趣味って言えましたね」
「ごめんって」

 きっと、僕がこの質問をしなければ僕だけが悪趣味なやつだということになっていたことだろう。本当は早く帰りたくて仕方がないが、興味がなくても世間話はしておいたほうがいいというのがよく分かった。

「人に頼まれるってことは、霊媒師的なことでもやってるんですか?」
「別にそういうんじゃないよ。ってか、霊媒師ってなんか凄い胡散臭そうだからやめてほしいわ」
「実際、秋山さんは今のところかなり胡散臭いですけど……」

 秋山さんは会ったときから胡散臭い感じだったが、どうやら本人にその自覚はないらしい。人に頼まれるほどの人なのにそれを生業としていないということは、知る人ぞ知る霊感が強い人といったところなのだろうか? 口ぶりからも、やりたくてやっているわけではないように思う。

「別に好き好んでそういうことしてるわけじゃないけど、原くんの頼みだったら幽霊の話とか聞くよ?」
「秋山さんに話すようなことは何もないですね」
「そんな即答しなくてもよくない?」

 嫌というよりは、気が引けるという方が近いだろうか。いや、嫌なものは嫌なのだけど。
 僕の周りで幽霊が視えるという話をしても引かないのは、中野くんと家族くらいだ。しかし余りにも身内であるが故に、言いたくない話も幾らかある。今回のことなんかまさにそれだ。そういう意味では、秋山さんに限ってはしがらみが全くない。言いやすいという観点で言うのなら、秋山さんは丁度いいと言えるのかもしれない。……しかし、だ。

「まあ、なんかそういう話が出来そうな奴が一人増えたって思えば、少しは気が楽になるかもしれないじゃん? 案外、何かの役に立つかもしれないし」
「はあ、そうですか……」
「嘘でもそうですねとか言ってほしいわ」

 そうやって言う秋山さんの、年上の余裕のようなものが垣間見える辺りが、何故か非常に鼻について仕方がないのだ。