04:後ろから響く劣等


2025-09-25 14:02:59
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 翌日。夕方になる少し前、家の近くのスーパーに寄った。歩きだからあまり多くは買えないが、まあ一人暮らしでそんなに沢山買うこともないし、特に問題はないだろう。足りなければまた、明日来ればいいだけの話だ。
 今日は安くなっていたピーマンを四つとツナ缶と、あとは人参と卵……まあ、その他必要なものを幾つか買った。ピーマンを多めに買ってしまったが、用途はこれから考える。青椒肉絲だとかピーマンの肉詰めだとか……細切りにして、適当にめんつゆと和えたりしてもいいだろう。ツナ缶も買ったし、それも一緒にしてしまってもいいかもしれない。結局のところ、手間のかからないよくあるレシピが一番美味しかったりするのだ。
 一人暮らしをしていると自炊は確かに面倒な部分もあるが、暇つぶしをするのには丁度いい。それくらい時間を持て余していると言ってもいいけれど、自分に合った時間の使い方をしているというのが一番しっくりくるかもしれない。料理をしている時間は、結構好きだ。
 スーパーがある道を少し外れると、途端に人がまばらになる。いつもと同じ光景だったのだけれど。

「あ、中野くん」

 道中の少し先にある文房具屋から中野くんが出てくるのが見えて、僕は思わずそう声が出た。僕の声が届いたのか、中野くんは僕のいる方に顔を向ける。目が合ったのが分かった。

「こんなところで、どうしたの?」僕が言うと、中野くんは何故か少し考え口を開く。
「うーん、身辺調査って感じかも」
「身辺調査?」
「原はこのまま家に帰るの?」中野くんは僕の質問をあからさまに避け、僕の持っているスーパーの袋をちらりと見て言った。
「まあ、そうだね。他に用もないし」
「ふうん……」

 中野くんは何かを言いたそうにしているような気もしたのだが、結局それ以上会話は続くことは無く。

「ま、いいや。じゃあ俺は行くね」

 そう言うと、中野くんは本当にさっさと行ってしまった。明らかに不自然で怪しく、あえて理由を付けるとするなら、今は僕と話している暇はないといったところだろうか? 中野くんが変なのはいつものことだが、今回はいつにも増しておかしかったように思う。
 僕と中野くんの家は決して近いわけではない。そもそも最寄りの駅も違うし、よっぽどの用がない限り、こんなところで会うことはまずないに等しい。だから恐らく、よっぽどの用でもあったのだろう。だからといって、文房具屋から出てくるというのはよく分からないけれど。
 こういう時、中野くんに理由を聞いてもきっと教えてはくれないのだろうと思っているのだが、案外聞いたら教えてくれるのだろうか? ……いや、そこまでして知ったところで、いいことなんてきっとない。僕はそのまま予定通り家に向かうことにした。


 ◇


 中野くんと別れて数分後。家まであと五分とかからないくらいまで来たあたりだろうか? 住宅街に入り、本格的に人とすれ違うことも少なくなってきた頃。

(さっきから、足音がするな……)

 少し前から、僕の後ろを歩いている足音がずっと気になって仕方が無かった。いや、住宅街を歩いていれば足音くらい聞こえるのは当然なのだが、問題はそこではない。なんの前触れもなく足音が聞こえてくることが問題だ。しかもかなり距離が近い。
 僕が足を止めるとご丁寧に向こうも足を止め、歩き出せばまた向こうも歩き出す。もし仮に僕のあとを付けているのであれば余りにも下手だし、まるで気付いてくださいとでも言いたげで、なんだか腹が立つ。尾行しているということをあえて分からせるということもあるらしいが、生憎やましいことは何もない。今回に限っては、尾行のプロに教えを請いた方がいいのではないかと思う。
 そんなわけないと思いながらも、中野くんが戻ってきたのだろうかということにして一応振り向いてみたのだが……。

(やっぱりいないか……)

 後ろには、いわゆる人の姿はどこにもない。


 ◇


 家についてから、僕はスーパーで買ったものをあらかた冷蔵庫に入れ、後は完全に暇を持て余していた。自分の家にある娯楽といったら小説くらいなものだが、今から読んでどれくらいで読み終わるのかを考えた時、余りにも適していないのがとても憎い。……と言いつつも、することがないから手に取ってしまうわけだけれど。
 ――本を読み始めてから、二時間くらいが経過した頃だろうか? 本に取り憑かれてしまえば、テレビから流れてくる音は最早ただ機械から流れてくるだけのそれに成り下がっていた。別にテレビは消しても問題はないのだけれど、家の中を無音に支配されるのは余り好きではなかった。テレビの音があることで気を紛らわしていた、というのが恐らくは正しいだろう。それくらい、ある意味で僕は音に敏感なのだと思う。

(……なんか、最近はよく音がするな)

 何もない所から異音がするというのは、僕にとって日常だ。しかし、今僕の耳に触れた音は、それとは少し違うものだった。というのも、鈴の音のような音で、しかも家の中からではなかった。くぐもった音だったのだ。にもかかわらず、誰かが玄関を通り過ぎていく足音もしない。よくある環境音と取るには、少々異質なものであるには違いなかった。
 いつもだったら、よくある音として気にせずにそのまま放っておいていたことだろう。でも少し前、中野くんが余りにもとあるそれの存在を気にしていたものだから、いつにも増して気になってしまっているというのもあった。とにかく、少しそわそわしていた。さっきのスーパーからの帰り道、後ろには誰もいないのに足音がしたということもあるし、何か僕の予期しないものが家までついてきたのだとするなら、それはそれで厄介だ。

(一応、見ておくか……)

 こういう時、別に悪いことをしているわけではないのになるべく音を立てないように歩かなければならないのは、少々理不尽だと思う。どうしてこんなことをしなければならないのだろうかと、虫の居所が悪くなりそうだ。
 僕は仕方なく、ゆっくりとつま先で地面を踏みながら玄関に向かった。この家に越してきて一年と少しが経つが、こんなことをする羽目になったのは初めてだ。文句の一つも考えられないくらい、気を集中させて無音を生む。
 玄関の靴置き場に置いてある靴にこれまたゆっくりとつま先を入れ、音を立てないよう、息も殺して静かに玄関のドアに触れた。……僅かに感じる人の気配のようなものが、ドア越しでも伝わってくるような気がする。それが完全に僕の気のせいか否かを確かめるため、僕の背よりも低い覗き穴に近付いた。心臓の音が、僕以外の誰かにも聞こえているのではないかという気さえする。それも非常に嫌だった。
 テレビの音も耳に入らない、あるいはいつの間にかテレビが消えてしまったのではないかと思ういくらい、とても静かな時間だった。今更、誰がいたところで余り驚かないと思っていたのだが……。

「――うわぁ」

 これまでの静寂を台無しにするほどの声が思わず出てしまうくらい、とある女性は扉越しすぐ傍に居た。


 ◇


 午後二十一時をまわった頃。誰しもが比較的落ち着きを取り戻している時間だろう。僕もそのうちの一人で、そろそろ読み終わりそうな本を読んで暇を潰していた。……一応読んではいるのだが、もはや頭には何も入ってはいなかった。
 今読んでいる本は、世間でもそれなりに知名度のある作者のミステリーである。基本、僕は気に入った作者の本しか読むことはしない。高校の時は二人くらいだったのだが、有難いことに今は四人に増えた。特定の作者以外の本は読まないというよりは、自分の好きな傾向の作者だというのが分かるまでは迂闊に手を出さないというのが正しいのだと思う。但し、あくまでも感覚の話になってくるのでたまに間違うこともあるのだが。
 あと数十ページで本も終わろうかというところで、携帯がテーブルの上で震え始めた。仕方なく手に取ると、どうやら中野くんがメッセージを送ってきたようだった。

『今家にいる?』

 こんな時間にそんなことを聞いてどうするのだろうかと思いつつ、僕は一言「いるけど」と返信をした。中野くんからはすぐに返信が来た。

『ならいいや』

 ならいいや、というのは一体どういう意味なのかは全然よく分からないが、その後すぐにまた変なスタンプを送って来たので、僕は返信するのをやめた。中野くんはいつも、質問をするだけしてどういう意図をもって質問をしているのかの答え合わせまではしてくれない。そしてこういう時の中野くんは、聞いてもどうせ教えてくれないことを僕はよく知っている。
 友達だからといって何もかも共有する方がどうかしていると思うが、中野くんに関してはそれにしても隠しごとが多い印象だ。何となくそんな気がしているだけで、別にだからどうというわけではない。じゃあ僕は中野くんに隠し事をしてないのかと問われるとかなり困るので、この話は余り深堀りしないでおこうと思う。
 その後、小説を読み終わって(全く頭に入っていないので数日後にまた読み直すことになるのだが)からは、僕の感覚では特に何事もなく非常に平和だった。ドアが急に開いたこともあったが、まあ別に、特別重要なことでも無いだろう。
 僕にとって、家の中でドアが急に開閉を繰り返すというのは日常茶飯事である。そういう時、気配のある場所にまで見に行っても勿論人は居ない。それだけならまだしも、誰も居ないにも関わらず人の気配がしたり、誰かが廊下を歩く音が聞こえてきたりする時もある。そういえば、いつだったかにベランダの窓に人影が留まり続けることもあった。慣れてしまえば最早どうでも良かったのだが……今日のあれには、流石にビビってしまった。

「……寝るか」

 自分に向けて暗示するかのように、誰も居ない部屋にわざわざ宣言をする。大学生が寝るにはいくら何でも早すぎるが、これはそう、ただのうたた寝だ。どうせ何をしても落ち着かないし、寝たふりでもしていたら自然と時間は過ぎるだろう。
……とはいえ、特に何があるわけでも無いだろうということは分かっていながら、やはり少し、落ち着かない。一旦水でも飲もうと、僕は台所に向かう。すると、テレビの電源がひとりでについた。テレビのリモコンはいつものようにテーブルの上に置いてあり、僕の手の届く場所にはない。見たい番組を探すかのように次々とチャンネルが切り替わっていくのを、僕はやや呆れながら見守るしかなかった。

「飽きたらちゃんと消してよね……」

 誰もいないリビングにそれだけ言って、台所に向かう。これくらいの何てことない現象だったら、可愛いものなのだけれど。