03:耳に触れた気がした


2025-09-25 14:01:32
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 幸い、家の中は特に何事もなくいつもと何ら変わらなかった。それなりに整頓されている荷物が荒らされた様子もないし、特に目につくような異変は見当たらないように思う。ティッシュ箱がテーブルではなく床に落ちていたのだけが気になったが、それも単純に落ちただけだろうしさほど気にすることではないだろう。用心するに越したことはないけれど、幾ら何でも杞憂だったらしい。仕方なくティッシュ箱を元の場所に戻し、鞄を椅子の上に置き台所にある冷蔵庫を開けた。

「……そういえば、スーパー行くの忘れたな」

 冷蔵庫の中はかなり空間がある。今日を過ごすのには問題ないが、帰りにスーパーに寄ろうと思っていたのだけれど完全に忘れて家に帰ってしまった。一応明日くらいまではしのげる状態だからまあいいかと思うことにして、明日何を買いに行くかをぼんやりと考えながら水のペットボトルを手に取る。そのすぐ後、テーブルの上に置いた携帯が振動を始めた。
 置いた場所が悪かったのか、余りにも大きな音を立てるものだから、思わずビビってしまったのを取り繕うように小さくため息をつく。僕は、コップに水を注いでからテーブルに向かった。座りながら携帯の画面を見ると通知の正体は中野くんで、どうやらメッセージが送られてきたらしい。

『部屋、何もなかった?』

 短文で送られてきたそれに、僕は同じように短く「別に何もないよ」と送った。それで終わってほしかったのだが、「ホント?」と返ってきたのを見るだけ見て僕はそれに何も返さなかった。放置して暫くした後、中野くんからよく分からないスタンプが送られて来ていたのも、余り気にしないことにする。

(幽霊か……)

 改めてコップに水を注ぎながら、考える。中野くんは自分についてきてるわけじゃないと断言していたけれど、どうしてああやって言い切ることが出来たのだろうか? 中野くんの知り合いではないと言っていたが、知り合いだからといってついてくるわけでもないと思うのだが……。
 個人的には、あの人は偶然あそこに立っていただけで、別に誰かについてきたわけではないのだと思っておきたいところだ。ただそこにいるだけだったかもしれないものを、ついて来てるだなんだと簡単に決めつけられるものではない。……そう言い切れないくらいには、確かに不自然ではあったのだけれど。
 思い当たる節のないことをいくら考えても、答えがそう簡単に出るわけもなく……。考えるのを諦め始めた頃、部屋の静けさが急に気になり視線を一周させる。当然、どこからどう見ても僕一人だ。急に水を飲む気がなくなり、まだ半分以上水の入ったコップをテーブルに置く。それでもまだ落ち着かず、僕は思わず席を立ち、リビングを後にしてあらゆるドアを開けに歩いた。
 リビングからトイレとお風呂に続き、戻って自分の部屋のドアを開ける。……当然、誰か人がいるわけもなく。

「まあ、普通は居ないか……」

 最後に何となくクローゼットを開け、不自然に空いているスペースを見て一体何をやっているのだろうという気が急にせり上がり、何度目かのため息が出た。人なんて居ないということは分かっていながらも急に不安になってしまったのは、中野くんのせいだということにしておこう。
 仕方がないので一度リビングに戻り、明日までやっておかなければならないことを確認してからゆっくりすることにする。……ゆっくり出来るかどうかは、僕の気持ち次第だが。


 ◇


 ――少し遠くから、何かが鳴る音がする。普段余り聞くことのない音で起こされるというのは、正直なところいい気分ではなかった。

「……電話か」

 目の前がまだぼやけたまま辺りを見渡すと、窓からは夕空の光が落ちていた。リビングから場所を変え自室で作業をしていたのだが、どうやら知らない間に寝てしまっていたらしい。らしいというか、うたた寝などではなくしっかりベッドに入って寝ていたわけなのだけれど。
 窓の外が暗くなりかけているのを確認し、部屋のカーテンを閉める。鳴り響いているそれは、リビングにある固定電話からだ。仕方なく自室からリビングに向かったが、僕はそれに出る気は全くなかった。
 リビングに足を踏み入れるかどうかといったタイミングで、どうやらその間に留守電に切り替わったらしい。自動音声の声が聞こえた。今時、固定電話が鳴る時なんてそう多くはない。せいぜいセールスや詐欺くらいのものだろう。家族や知り合いからの電話なら手っ取り早い携帯に来るだろうし、例えば病院にかかっていればそこから電話が来るということもあるだろうが、生憎そういうこともない。急用なら、放っておけば留守電に何かしら入るはずだ。面倒なのでそれを待つことにした。
 リビングにあるテレビが、不自然につけっぱなしになっており音が響いている。消すのを忘れて自室に入ってしまったのか……いや、いつもは必ず消しているはずなのだけれど。まあいつものことなので特別気にはせず、別に見たくもない番組を眺めている間に、どうやら留守電は切れたらしい。
 少し遠くにある電話機を覗くと、留守電を意味する赤いランプが点滅していた。そのままにしていても点滅し続けるだけだし、仕方がないので留守電を聞いてみることにする。……しかし、留守電のボタンを押してみたにも関わらず、用件はおろか相手の声も何も聞こえてくることはなかった。それが数秒だったら何とも思わなかったのだろうが、留守電の時間が切れるまでずっと無言というのは、不審以外の何物でもない。用件が入っていないものを残しておく理由はないし、すぐに留守電を消し、赤いランプも消えたことを確認して何も無かったことにした。

 今日は家にあるものでどうにか夕飯を見繕わなければならないが、具体的に何が冷蔵庫にあっただろうかと思いながらリビングのカーテンを閉めた時――またしても電話が鳴った。また同じ人物からのような気がしたが、それにしたって出る理由がないので気にしないことにする。留守電が入っていないのなら尚更だ。
 僕は台所に向かい、冷蔵庫の中を改めた。中には四分の一ほど残ったキャベツと半分ほど残ったニンジンがある。それとさっきは気付かなかったが、茄子が奥のほうで暇をしているようだ。
 ひき肉の入った中華料理の元は常備しているし、それがあればどうにでもなるだろう。中華料理の元は、こういう時にとても便利で有り難い。ハムは流石に使いどころがないか……そんなことを思いながら手に取ると、少し遠くのほうでまた電話が留守電に切り替わる音がした。しかしやはり、誰かが喋っている気配はない。
 確証はないけれど、留守電になっているにも関わらず喋らないというのが二度連続で続くとなると、さっきと同じ人物からであるという可能性が高そうだ。今時固定電話にいたずら電話だなんて暇な人がいるもんだと、無駄に感心してしまう。留守電が切れたのか、留守電のランプがまたチカチカ点滅しているのが見える。しかし、今はそんなことはわりとどうでも良かった。
 卵が二つ残っているから、一つは使ってもう一つは明日の朝にでも使い切ってしまいたい。そういえば冷蔵のほうしか見ていなかったけど、冷凍のご飯はまだ残っていただろうか? ……などと考えている時だ。三度目の電話が鳴った。

(飽きないのかな……)

 一つ気になったのは、二回電話をかけて家主が電話を取らないにも関わらず、それでもなお連続で電話をかけてくるという点だ。もしかして本当に急用だったりするのだろうか? いや、だとしたら留守電に一言くらい何かが入っていてもいいと思うのだけど、それがないというのはどういうことなのだろう。こういう場合、本当なら出ないほうがいいのかもしれないが……。

「……もしもし?」

 仕方がないので、万が一のことも考えて僕は仕方なく出てみることにした。せっかく人が出たというのに、相変わらず電話の先に居るであろう人物からの応答はない。どちらかの電話が壊れていて、音がこちらに聞こえていないということもあるのだろうか? そう思いつつ、もう少しだけ意識を集中して受話器の先の音を聞いてみることにする。

 ……。
 …………。
 ………………。
 僅かに息が鳴る音が、受話器越しから聞こえた。