01:掻消えるまでの暇つぶし


2024-08-31 01:21:40
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 この日の駅のホームは、とても閑散としていた。終電間近というわけでもないのに、僕を含めると向かいのホームにいる駅員と、もう一人二人いる程度のものだった。
 ラッシュ時間は、もうとっくに過ぎている。人がごった返しているというわけではないことは有り難いが、余りにも人がいないというのは、それはそれで少々落ち着かない。
 僕が乗っていた電車は、もう既にホームを出て次の駅へと向かっていた。それにならって僕もすぐにホームを後にしても良かったのだが……その場を動くことをしなかった。人が完全に散るのを待っていたのだ。
 新しいバイトが始まって暫く、いい加減慣れてはきたものの本当はすぐにでも帰りたくて仕方がなかった。どちらかといえば必要な時間の浪費だから仕方がないと、自分に言い聞かせててここに留まっている。寒さが鼻を掠めていくことも、気にしないようにした。

(この辺りって誰かが言ってたな……)

 人がいなくなったのを確認し、僕はホームの黄色い線を越えない程度に身を乗り出した。一週間ほど前のことだっただろうか? 今僕がいるあたりで女性が足を踏み外し、線路内に落下するという事故があった。
 その時電車はまだ来ていなかったようだが、どうにも打ちどころが悪かったらしく、すぐに病院に搬送されたものの女性は助からなかったと聞く。
 目撃者によると、その日は今日に比べたらまだ人はいたようだったが、例えば誰かが女性を突き飛ばしてホームから落としたなどというような事件性はないらしかった。ホームにある監視カメラも、それを証明していた。なら、その女性が自ら線路に身体を投げたのか? いいや、そうではない。
 女性が落ちる直前、監視カメラには女性に一体何があったのかが僅かに映っていた。原因はカラスだった。どうもホームにいたカラスがその女性のことを襲ったようで、それで足を踏み外してホームから落ちてしまったらしい。
 何がカラスの癇に障ったのかは、恐らく誰にも分からない。監視カメラに映らないところで、女性がカラスに対して何かを行っていたのかもしれない。ただ単に、カラスの虫の居所が悪かったということもあるだろう。後者の場合、標的にされたその女性は気の毒だとしか言いようがないし、前者の場合は、少し苦い顔をするくらいのことしか、僕にはできない。
 仕方がないこととはいえ、事故が起きた場所で降りなければならないというのは、やはりどうしても気分がいいものではない。その女性とは別に知り合いではないし、正直に言ってしまえば、普段なら特別そこまで気にはならないことだとも言っていいだろう。しかし、今回はなんというか……最寄り駅でそういうことが起こったからということもあるのかもしれない。少しだけ、状況が気になったのだ。
 だからといって、別に事故現場をまじまじと見なくてもいいだろという声は、仕方がないので甘んじて受け入れることにする。
 ホームから線路をのぞき込んでみると、線路や周りの石には血痕のようなものがまだ残っているように見えた。あそこに頭かどこかを打ち付けたのか、それとも飛び散ったものなのか……。思わず女性が落ちた状況を想像し、すぐに無かったことにしようと頭を振った。
 ここまで考えておいてなんだが、なんて不毛な時間を過ごしているのだろうと我に返る。やっぱり足を止めず帰ってしまえばよかっただろうかと後悔しながら、僕はふと、駅のホームにある時計を見た。電車が行って数分後の、二十一時三十四分。時計の針は、概ねそれを過ぎた頃を指していた。
 ――視線を線路から外した時、恐らくそれは、既に僕の前に姿を見せ始めていたに違いない。比較的慣れた気配が、僕の五感を擽る。線路内を見ると、景色が少しだけ歪むのが分かった。同時に、冬の淀んだ空気が辺りから消えていくのがよく分かる。それは、そこには本来居ないはずのモノが現れる予兆のようなものだ。

(……やっぱり、そんな気がした)

 本来なら居るはずのない場所に、それは静かに現れる。一人の女が、薄黒い粒子を連れて姿を見せた。
 静かに佇んでいる女の姿は、片方の足が消えており向かいのホームが透けて見えている。言ってしまえば、なんの捻りもない如何にも幽霊といった姿で、それが数日前にここで亡くなった人物であるということは、すぐに分かった。到底人間の姿とは言い難いそれを、僕は思わずまじまじと見つめた。その光景を見て、特別驚くこともなかった。見慣れていたのだ。
 しかし、一つだけ。これだけは言っておきたいのだが、その女が右腕をゆっくりと上げ、こちらに手を伸ばそうとしたことだけは、非常に嫌悪感を覚えた。

「……幽霊、居ると思ったんですよね」

 この時、僕はその幽霊に話しかけているわけでもなければ、別の誰かに話しかけたわけでもなかった。
 今回僕はわざわざこれを見に来たわけだが、その理由を端的に言うなら気になったからだ。そうじゃなければ、事故現場でわざわざ足を止めたりはしない。もう少し詳しく言うのであれば、それが僕の想像する状況なのかを確認したかったのである。
 終電近い時間には人が少し増えたりもするが、今日はそうではない。だから僕の独り言も、虚空に消えるものだとばかり思っていた。

「キミ、あれ視えるんだ?」

 ……それなのに、後ろから誰かに声をかけられる。男の声だった。さっき時計を見たときは誰もいなかったこともあり振り向くのを躊躇ったが、かと言って正体が分からないものに声をかけられるというのもいい気分ではなく、仕方なく振り向くことにした。
 見ると、男は僕よりは恐らく年上で、耳に幾つかのピアスを施しており髪色も明るく、第一印象だけで言うなら軽薄な男のようにも見えた。

「あ、俺はただの通りすがりの男。ちなみに秋山って言うんだけど」

 僕の不審に思っている空気を悟ったのか、男は慌てて名字を名乗った。言ってしまえば、僕はこの秋山という人のことなんて全く興味がない。なのに名前を知る羽目になってしまい、脳の容量が無駄に減ってしまったのが非常に解せなかった。
興味のない相手に限って自分のことを話したがるせいで、不要な情報を得てしまうのは仕方のないと割り切るしかないのであれば、世の中は無駄なものばかりであるに違いない。
 僕が目の前にあるそこに飛び込むとでも思っているのかどうなのか、男は急に僕の手をむんずと握る。その拍子に、珈琲の独特の香ばしい香りが、僅かに僕の鼻に届いたような気がした。

「よろしく」

 男が僕に挨拶を向けると、回送と思われる電車が女性のいた線路を思い切り通り過ぎる。今までで一番冷たい風が、顔に当たったような気がした。

「名前は?」
「な、名前?」
「うん。キミの名前」

 女の幽霊なんて何もなかったかのように、秋山さんは僕に自己紹介を求めた。正直なところ、なんでこの人に自己紹介をしなければならないのかよく分からず、余り言いたくはなかったのだけれど……。

「原 誠一(はら まさかず)ですけど……」
「原くんか、よろしくー」

 秋山さんは握った僕の手のみならず、腕を脱臼させようとしているのかと疑うくらいに思い切り振った。丁寧に下の名前まで口走ってしまい、後悔が募る。この人が悪い人間ではないということを、切に願うばかりだ。

 電車が通り過ぎて暫く、急に静かになったホームには僕と秋山さんしかいないらしかった。向かいのホームには知らない間に人が数人居たが、その人達は恐らく、線路内で起きていた状況を見てはいない。その確信があるくらいには、日常の一端の顔をしていた。
 線路内にいた女の気配も、もうとっくになくなっていた。幽霊が現れた時の、少し淀んでいたような空気はもうすっかり無くなり、冬のさっぱりとした感覚があった。少し拍子抜けだ……と言ったら、不謹慎に思われるのだろうか。
 秋山さんが握っていた僕の手を放し、さっきまで女がいた線路を見て何かを考え始める。目的を果たした僕はもうさっさと帰りたい気分だったのだが、どうも秋山さんはそうではないらしい。

「原くん、さっきのヤツと知り合い?」
「……いえ」仕方なく僕は答えた。
「ふうん?」

 僕が答えると、秋山さんはどうにも納得がいかないといった感じで、尚更難しい顔をした。僕は別に嘘はついていないのだけれど、一体何がそんなに気になるのかよく分からず、早く帰りたくなる一方だった。

「一つ言っていい?」

 秋山さんが、あからさまに何かを言う準備を始める。別に自分が人の心が読めるエスパーだなんだと言うつもりはないが、この後に続く言葉がなんとなく予想がついてしまう自分がいた。
 質問として僕に投げかけてきているのだから別に断ったって良かったはずなのに、僅かな良心と、それに加えて僅かな好奇心がそれを拒む。この僅かな沈黙は、秋山さんにとっては肯定の合図らしかった。

「キミ、さっきのに相当好かれてるよね。心当たりとかないの?」

 そしてその言葉を聞いて、やっぱり聞かずに帰ればよかったと心から思った。

「ああ……そうなんですね」
「なんか思ってた反応と違うな。驚くとかそういうのを期待してたわ」
「幽霊にはよく好かれるので、特に驚きは無いですね」
「あ、そう。でも、そういうことじゃない気もするんだけど」

 幽霊にはよく好かれる。これは決して嘘ではない。幽霊が視える人に幽霊が寄ってくるというのは、よくある話でもある。特別珍しいことでもないだろう。自分のことを認識できる人に話を聞いてほしいというのは、自然な感情だ。まあ、迷惑であることに変わりはないけれど。
 この秋山さんという人だって、幽霊が視えるというのなら幽霊にしつこくつきまとわれるくらいの経験くらいはあるだろう。それなのに、なんでわざわざ僕にそんなことを言ってくるのかがよく分からなかった。

「ま、用心するに越したことはないってことで」

 じゃあまた、と言いながら、秋山さんは僕の横をさっさと通り過ぎた。また、というのがやや気になるが、ようやく帰れると思うと、思わず安堵のため息が出る。
 何となく、ホームに置いてある時計をもう一度見る。一連のことを合わせて十分くらいのものだが、それ以上に疲れた感覚だけが僕の中に残されてしまった。今日はもう、家に帰ったらさっさと寝てしまおうか。そんなことを思いながらふと、僕は秋山さんが向かった先に目をやる。

(……早く帰ろう)

 そこには、秋山さんの姿はもうどこにもなかった。