46話:全ての想いを口には出来ない

 ロビーに戻る時の足取りは、きっと周りが思っているより重くはなかった。僕の歩く速度より橋下さんらのほうが歩くスピードが速いから自然とそうなっているだけなのだが、これがもし一人だったらぐずぐずしていたに違いない。
 ロビーにはこれまで通り案内人さんがいたが、それに合わせて支配人さんもいた。掃除の人は居なかったが……きっとどこかで寝ているのかもしれない。
 一番最初に言葉を口にしたのは支配人さんだった。

「話は終わったかい?」
「分かんない」それにいの一番に反応したのは橋下さんだ。
「なるほど? それは困ったな」

 まあ確かに、何か実のあるような話をしたわけでもないのだけど、だからといって特別それにたいして不満があるわけでもなかった。この人達といる時はそれもいつものことのような気がしていたから余り気にしてもいなかった。だからと言って、ほかの二人がどう思っているのかは分からないけれど。

「でも、満足はしたかな」

 少なくとも、橋下さんは僕と似たような感覚のようである。神崎さんは……僕が言うのもなんだがいつものように余り話に入っては来なかった。僕が無理矢理橋下さんのところに連れて行ったということもあり、神崎さんがどう思っているのか気が気じゃなかった。

「な、なんだよ……」僕が神崎さんのことを凝視し過ぎてしまっていたのか、神崎さんは少々変な顔をしながらそんなことを言った。
「えっ!? な、なんでもないです……」

 気付かれたことがなんだか恥ずかしく、思わず否定してしまった。こういう時、僕にもう少し突っ込める力があれば神崎さんの話が聞けたのかもしれないけれど、誰かと話す能力が僕には余りにも備わっていなかった。というより、本音を聞くのが怖かったのだと思う。
 支配人さんが胸ポケットからペンを取り出すのが見え、橋下さんの興味はそっちに向かわれた。万年筆のフタを取り、またあの時のように空にペンを走らせた。

「そのペン、魔法かなにかで出来てるんですか?」
「どうかな。有り体にいえばそうかもしれないけれど」

 ほんの僅かに言葉を濁して含みを持たせる支配人さんに、橋下さんはつまらなさそうに「ふーん」と相槌をうった。その様子に、何故か支配人さんはクスクスと笑いを含めた。

「キミも持っていたはずだよ。この類のものを」

 支配人さんの言葉に、まるで時間が止まったかのように橋下さんは動かなくなった。目をぱちぱちとさせると、橋下さんは顎に手を当て何かを考える。

「うーん……そういう冗談はキツいんですけど」
「すまないね。忘れてくれ」

 本当に冗談だったのか、支配人さんはすぐに言葉を撤回した。こんな状況でそんな嘘をつくのだろうかと思ったのだが、橋下さんが心当たりがないらしいので(或いは、心当たりがないふりをしたのか)真実はどうだか分からない。
 そんな会話をしているうちに、僕達の前に現れたのは一つの扉が現れた。空にほんの僅かにペンを触れさせるだけで出来るそれは、やはり魔法と言っても差し支えないものなのだと感じた。
 僅かにインクの掠れが残っているようにも見えるそれを、支配人さんが開ける。扉の向こうに広がっていたのは、僕達が一度見た景色だった。ここの屋上と同じ、画用紙に水を含ませた絵の具を落としたような淡い色で埋まっていた。それも一色ではないというのも同じだった。
 白ではなかったというのがどこか安堵感を生んでいたような気もするが、見る人が見たら不気味だときっと思うのだろう。僕はそうではなかったというだけだ。

「さて、二人には今からここに入ってもらうことになる。分かっているね?」
「そこに入ったらどうなるんですか?」
「ここに帰って来られないということは確かだけれど、その先のことは分からない」
「ここに残るって言い出したらどうするんですか?」橋下さんの言葉に、僕は少しだけどきりとした。
「そうだな……」

 橋下さんの質問攻めに、支配人さんは初めて顎に手をあてあからさまに考えている素振りを見せた。本当に考えているのかどうなのか、出した答えというのが。

「無理矢理押し込むしかないね」
「怖……」

 本当に考える必要があったのだろうかという解で、きっとたいして考えてはいないのだろうなと、僕はそう思った。

「そろそろ時間だよ」

 ……一体どうやって時間を測っているのか、少しばかり気になったのだけれど。

「あ、中って何か持っててもいいの?」

 どうやらそれが気になっているのは僕だけのようだ。

「良いんじゃないかな」

 もはや橋下さんの質問にちょっと飽きている様子の支配人さんは、これまで以上に雑な受け答えをした。

「非常食、やっぱり大事ですよね」

 少しだけ冗談じみたそれは、神崎さんの言葉の復唱だ。さっき神崎さんに貰った該当物は、もしかすると本当の意味で非常食になるのかもしれない。緊張感がまるでない話だが。
 橋下さんは自分の荷物はその飴しか持っていないようだったけれど、僕はそうではなかった。制服のポケットに入れたままの音楽プレイヤーが、急に重みを増したような気がしたのは、きっと気のせいではないのだと思う。

「あの、神崎さん……」

 おもむろに、僕は神崎さんのことを呼ぶ。

「これ、神崎さんが持っててください」

 神崎さんは、少しだけ驚いているように見えた。
 別に持って行っても構わないのだろうけれど、父から貰った音楽プレイヤーに縋る必要はきっともうないのだろうと、そういう感覚があった。
 きっと神崎さんがこれを持っていたところでなんの意味も無いだろうし、神崎さんのものではないから持って帰るということもないのだろうけど、だからといってこれを持ったままというのは少し違う気がしたのだ(そもそも、何も助けてくれなかった父がくれたものに縋っていたというのが少々歪んでいたと思う)。

「電池切れちゃったので……」

 そうして、僕は神崎さんに音楽プレイヤーを差し出した。半ば無理やりだったかもしれないが、神崎さんは何も言わずに受け取ってくれた。
 その何も言わずに、というのが少々怖いのだけれど、余り深く聞いてはいけないような気がして、僕もそれ以上のことは何も言えなかった。……それは有り難いようで、同時に不安にもなった。

「じゃあね、先輩!」

 ほんの少しして、橋下さんの言葉はいわゆる僕らが想像するいつものそれだ。
 名残惜しくないだなんてことは決して言わないけれど、橋下さんがそんなだから、僕もいわゆる誰かが想像する僕のままで居ることにした。

「……さようなら」

 手を振るだなんて、きっといつもだったらしないであろう少しの要素を加えながら。

何もない部屋