掃除という言葉は実に曖昧である。だけれど同時に、とても便利な言葉であると個人的には感じていた。ボクと初めて会ったあの状況で突然掃除と言われたとある彼女はさぞ不思議な感情に苛まれたことだろうけど、これから先あの彼女に会うことは恐らくないだろうし特に問題はないだろう。
ボクが逝邪としてとある場所に向かうのはとても珍しく、でもだからと言って、逝邪として何かをするというわけでもない。それが逃げだと分かっていながらも、そうする以外の術をボクは知らないのだ。
向かった先は、とある道路。数年前にとある交通事故が起き、橋下君が何度か通った場所だ。まるで人払いをしているかのように全く人が歩いていないのは、逝邪と瞑邪の力と言ってもいいのだろうか。その辺り、答えてくれる人が誰もいないせいで憶測の域を出ることはない。
ゆらゆらと、その道のとある場所に存在しているそれは、どうやら元の形は既に残っていないようだった。
「原型、もうなくなっちゃったんだね。ボクの知らない悪事もいくつかあったのかな?」
元々は人の形を繕っていたのであろうそれは、僅かに人の形を模しているようにも視えるが、元々どういう姿だったのかを思い出すことが出来ないくらいに辛うじてそこに存在しているといったところで、いわゆる幽霊の、特に善とはほど遠いそれの末期の姿だ。
「恨みって言うのはさ、晴らしたらせいせいするものなんでしょ? それにしては随分と苦しそうだけど」
本当に苦しいのかどうかは知らないが、祥吾くんのことを思い出せばある程度の察しはつく。とはいえ、今のボクには到底理解できるものではないのだが。
祥吾くんについてはともかくとして、この人物がこういう状態になっているというのは正直同情する余地がない。何故ならこの相谷 光莉という人物は、ボクが知っている限り悪事を四つ働いているからだ。
「でも相谷くんはさ、それでも恨んではいなかったと思うよ。寧ろ、環境的にはああなって良かったとも思ってたんじゃないかな。まあ、きみにはこの感情は伝わりそうにないけれど」
ボクは彼の友達でも何でもないからあくまでもこれは憶測に過ぎないのだが、親戚の家に住むことになったというのは彼にとってはある意味では有難いものだったのではないかと考える。
両親は姉のことばかり可愛がり、姉はそれを良いことに自分が優しい姉であるということを演出した。だからこそ姉は自分と同じ学校に進学したらどうかと進言したし、彼は親戚の助言があったにせよ姉が居なくなったことを確認するかのようにあえて姉が通っていた高校に進学したのかもしれない(どういう理屈かまでは知らないが、それが恐らく姉の逆鱗に触れたのだろう)。本当にそう思ったのかは分からないが、そうじゃなければ少なくともボクだったらそんな姉のいた高校にわざわざ入学なんてしたくない。
少し小馬鹿にするかのように、深淵がボクの身体を巻きつくように覆った。怒っているのか、いっそボクごとどこかに連れて行こうとでもいうのか、しかしそれは、ボクにとっては余りにも弱々しいものに違いなく、風の一部に過ぎなかった。
「ボクが君を助けるの? どうして?」
この末期の状態は、幽霊という全ての存在がこういう現象になるというわけではない。だが幽霊というのは本能的に最期にはそうなるということを理解しているため、ボクのような存在に助けを求めてくることが往々にしてある。これもそういうことだろう。言葉がなくても、それは伝わってくるものだ。
「……ああもしかして、ボクが逝邪だから助けてくれるとでも思ってる?」
本来であれば逝邪という特性上、助けるという行為をしても問題ないのだろうが、ここに至るまでに誰も助けることをしなかったボクが、どうして知り合いでもないただただ堕ちていくそれに対して情を持ち助ける必要があるのだろうか?
「どうせすぐ消えるんだからさ、暫くはその苦しみを楽しみなよ。相谷くんと……あとそういえば、キョウくんのことも脅してたよね。というか、最後にはキョウくんのことを殺しておいてボクが助けるわけがないんだけど」
恐らくは誰もが勘違いをしているに違いない話。あの祥吾くんが、キョウくんを殺すなんていうことはあるはずがない。それを一番分かっているのは恐らくボクなのだろうけど、それを誰かに進言する気は余り無い。
この相谷 光莉さんは、交通事故を装って相谷くんを道連れにしようとした。その結果、自分だけが死んだことを恨んだのだ。その後、何度か相谷くんを襲いにいったようではあるけれど(両親ごと殺害しようと試み、次は相谷くんが寝ているところだったと記憶している)その度に失敗していたのは、相谷くんが人の影響を受けないように気を張っていたからであり(要するに当時の相谷くんには隙がなかったということだ)、言ってしまえば遅かれ早かれこうなっていたことだと言えるだろう。但し、その隙がどうして生まれたのかはボクには分からないことではあるが。
「あなたがやっていたことは全部視てたから。だから何もしない」
ボクは全てを知っている。そうであるにも関わらず、ボクは誰の力にもならなかった。そういう約束を取り付けていたからであり、これは予定調和であるに違いなく、誰の抗議を聞く必要もない。ここで最早形のないそれに力を使うなんて御免だし、だったらこうなるよりも前にどうにかしろという話だ。だからボクは、この状態を野放しにする。当然のことだ。
「じゃあね。とある君さん」
わざわざ名前を呼ぶ必要もない人物、先ほどまで纏まっていたはずのそれは纏まりのない浅黒い粒へと変わっていく。僅かに身体を滑り落ちていくのを感じると少々気分が悪くなったような気がしたが、既に身体が無いボクのような存在が気分が悪くなるというのもおかしな話だ。その感覚はすぐになくなった。
「浅ましいな、本当に」
一体何に向かってそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。
少なくともボクの身の回りのことに関しては、暫く平和が続くのだろうとそう思う。本来なら安堵するべきことなのだろうけど、それは少し違うような気がした。何故なら、もうこれで大丈夫だねと言える人は周りに居ないし、やっと終わったねと声をかけられる人もいない。全部、ボクが自ら手放したのだ。だからボクが安堵をするということはしない。でも後悔もしていない。
……そのはずなのに、ボクは再びこう思うのだ。
「暫くは、また一人だな……」
見つかることのない人物との約束なんて、今更守る必要があるのだろうかと。