46話:全ての想いを口には出来ない

「無重力っていうのは、こういうことを言うのかな」

 僕たちがいる場所は、とてもじゃないが現実とは思えない程に奇怪だった。橋下さんは無重力と言ったが、それもなんだか違うような気がした。視えない何かに持ちあげられているような、でも周りを見渡しても何かがある様子はまるでない、そういう感じだった。それが無重力というのものなのかもしれないが、余りにも現実味がなさ過ぎるのでよく分からない、というのは正直なところだ。
 辺りは少し色がついていたが、それに障ることはどうやら出来ないらしい。これまで空間に色が余り無い場所に居たからなのか、より鮮明に、でも優しい色が散りばめられていた。

「怖い?」

 先輩の質問に僕は答えなかった。別に怖いとか怖くないとか、そういう感覚ではないように感じたのだけれど、どうやら橋下さんにはそう見えたらしい。どちらかと言うと、そう。不安に近い。

「大丈夫だよ」

 橋下さんは、僕の手を握ってそう言った。こういう時、いつも僕は何かを言われる側で、どうして気の利いたこと一つ言うことが出来ないのかと、自分を少しだけ恨んだ。

「ここに来る前はどうか分からないけど、今は一人じゃないしさ」

 もし僕が、もう少し橋下さんや皆を頼ることが出来ていたなら、どうだろう?
 もしかすると、ここに来ることもなく比較的平和に高校生活を送れたなんてこともあったのかもしれない。もしかすると、同学年で話が出来る人だって出来ていたのかもしれない。それが恐らくは、学校生活を送るうえで一番平和だったに違いない。
 でもそれは、もう叶うことのない希望的観測だ。

「それに、行かないと先輩に怒られるよ」

 ……神崎さんは今、僕たちが居なくなった後で一体どういう顔をしているのだろうか? 宇栄原さんは今、一人で何をしているのだろうか?
 こうしてもう会うことがないであろう人のことを思ってしまうのは、僕が出来ていたのかもしれない学校生活が、ほんの僅かだけれど送れていたということなのかもしれないという感覚が、それも少し嫌だなと感じてしまうのは、完全に僕の我が儘だ。矛盾しているのだ、何もかもが。

「……そうですね」

 一人でいたならきっと、今の状況で行きたくないなんて思うことは無かったはずなのだから。

「相谷くん」

 改めて僕のことを呼ぶ橋下さんは、僅かに透けて奥の色が身体に映っていた。少しずつ、本当に消えていくのだという現実を突きつけられているような気がして、それを見るのがとても嫌だったけれど、橋下さんはそんなのは関係なさそうに話を進めた。

「オレ、相谷くんに会うのは高校が最初じゃなかったんだよ」
「……え?」

 唐突に、なんの前触れもなくそんなことを言うもんだから、変な沈黙が訪れた。
 少し記憶を遡る。僕が橋下さんと会ったのは高校に入ってすぐのことだったけれど、それよりも前に会っていた? 本当に?
 正直なところ、小中でも余り人と関わることをして来なかったお陰で全く分からなかった。こんな特徴的な人、会っていたのなら覚えていそうなものなのに記憶にないとなると、中学校ではないのだろうか? それも憶測の域でしかないのだが……。

「それは嘘、ではない……?」
「こんな状況で嘘つかないよ」

 橋下さんの言いぶりは、本当に嘘を付いていないときのそれだ。いや、本当は嘘なのかもしれないけど流石にここで疑うなんて、逆に僕の人格が問われてしまうだろう。
 ふと思ったのは、小学校低学年の時に引っ越しをして高校でまたこっちに戻ってきたのだが、曖昧な記憶となると恐らくその辺り。小学校低学年の時のことになる。あの時も確か、引っ越すことが決まるよりも前から友達なんて作ろうと思っていなかった時で――。

『でも、また会えるかもしれないよ』

 小学校低学年の時、家に帰りたくなかった僕は学校にある砂場で夕方まで一人時間を潰していたことがある。それは一度や二度ではないのだけれど。

『だからおれのことは覚えててよ。あ、でも忘れててもおれが見つけに行くから。大丈夫大丈夫!』

 確かに一度、誰かが僕のところに来た。……ような、そんな気がする。橋下さんにそう言われたからそういう気になっているだけだと言われれば、それで納得するような余りにも小さなものだ。
 思い出したいような、でもこんなタイミングで思い出したくないような、そんな変な感情が僕の中を走った。今思い出したら、尚更……。

「な、なんで今そんなこと言うんですか……っ!」言いようのない感情に、僕はどうやら少し怒ってしまっていたようだ。
「いや、うん。別に言うつもりなかったからずっと黙ってたんだけどさ」

 へへと、いつもは見せないような笑みを橋下さんは浮かべた。それに合わせて、少しずつ橋下さんの気配が消えていくような、そんな感覚がした。

「だからきっと、また会えるよ。先輩たちに会うには結構かかりそうだけど」

 寿命というか、死ぬタイミングがどこかで合わないとちょっと難しいよね。などと、本気で言っているのかいないのか、冗談のようなものを交わせたかと思うと、橋下さんの手の感覚が急に無くなり思わず繋がれていた手を視界に入れた。橋下さんに限らず、僕の手もいつの間にか認識するのも難しくなっていた。それは向こうも同じだったのだろうか? 少し、本当に僅かに橋下さんが手に力を入れたのが伝わった。まるで僕の考えを全て読んでいるかのように優しく、そこには確かに確かに温もりを感じた。

「相谷くんはさ、雪好き?」
「な、なんですか急に……」
「いいからいいから」

 その質問は本当に急で、どうしてこの人はなんの脈絡も無くそんなことを言うのだろうかと文句が出そうになった。こんな今すぐにでも消えそうなタイミングで何でそんなことを考えなければならないのかとも思ったが、雪は別に嫌いではない。寒いのは好きではないけど、夏の方がもっと好きではない。どちらも特別思い入れも無いから、正直どちらでもいいのだけれど。

「嫌いじゃないと思います。多分……」

 こんな中途半端な答えなのに、どうしてか橋下さんは満足げに「そっか」と口にした。

「だったら見れたら良かったよね。一緒にさ」

 きっと橋下さんは分かっていない。その言葉が発せられるということは、少し、いやもしかしたら何か思い残していることがあるのではないかということに。
 それを僕が気付いてしまうくらいだというのに、どうしてかこれで本当に終わってしまうという気を起こさせないくらい、先輩はいつも通りのそれにも見えた。だって橋下さんは本当にいつもそういう人だったから。

「またね! 光季くん!」

 橋下さんが僕を見つけてくれていたように、橋下さんが最後に僕のことをそう呼んだことを、きっと僕はあの時と同じようになんの悪びれもなく忘れてしまうことだろう。

何もない部屋